(第十一回) 土屋天任堂訪問記 (2023.02.01)
2021年10月以来1年4ヵ月ぶりの更新となります今回は、松原が2022年11月に3年ぶりに訪れた高梁での取材記録です。
コロナ禍で取材できず、1年間強、サイトの更新が出来なかった。2022年11月末に3年ぶりに高梁を訪問できたので、ご報告したい。
この間、「土屋天任堂」の社長、土屋碩三さんからお便りをいただいた。栄町商店街のアーケードを備中松山城側に抜け、少し歩いた右にある、高梁市民にお馴染みの老舗「ゆべし」屋さんだ。私も2018年末からの1年間で数回、買い物に訪れている。
6代目の土屋碩三社長は『荘直温伝』を見つけ読んで下さった。そしておおいに惹かれるものがあったという。現在の高梁市民は直温についてはほとんどご存じないが、碩三社長にはその名前はピンと来るところがあった。天任堂は昭和2年2月23日に商標を申告している。申告したのは3代目の土屋幸三郎氏、申告先が本サイトの主人公「荘直温」だったのだ。
ここで碩三社長は3代目が申告した書状を保管していることを思い出し、当方にご連絡下さった。それからもコロナ禍は続いたが、ようやく2022年11月末に高梁の土屋天任堂を訪ね、碩三社長からお話を伺うことができたのである。
私(松原)は居間に通していただいた。そしてアルバムを開きながら天任堂と直温のご縁について伺った。
まず土屋幸三郎氏が荘直温に申告した書状はこちら。
これを読むと、申告した商品は「柚餅子(ゆべし)」「柚煉(ゆねり)」「吉備の里」の3点だったと分かる。柚餅子は餅粉に細かく砕いたゆずの皮、水あめを併せて煮詰めた餅菓子。柚煉はゆず皮を煮たマーマレードないしジャムだ。
ちなみに現在、高梁商工会議所認定の「高梁ぶらんど」では天任堂さんの「つちや天任堂ゆべし」「柚子もなか」 「吉備国シトロンの香り」3点を認定している(全認定件数が19点)。そこからも土屋天任堂は高梁を代表する老舗であることが分かる。
昭和2年当時に作成された登録商標、商品のマークはこちら。
直温は昭和3年9月に死去している。その年初の冬に持病が悪化し、高梁町長は3年6月に辞任している。しかし前年の2年9月8日には高梁町長に立候補し再選されているから、元気だった時点で土屋幸三郎氏が申告したことになる。当時の直温は高梁町・松山村の合併とともに経済振興に前のめりだったから、さぞ喜んで受理しただろう。
書状によれば文久年間(1861~64)に初代が柚餅子を扱っている。碩三社長によれば、その人は「土屋幸吉延久」、士族で、松山藩で物産を振興する役職に着いていた。その頃は山田方谷主導による藩政改革まっただ中で、特産品を生み出すよう方谷がハッパをかけ、お茶やタバコ、紙や鉄といった著名産品が江戸に輸出されていた。
方谷はさらに新製品を求めた。高梁周辺で採れる柚子に目をつけ、庭に柚子を植えろと指示をし、それに応えたのが役人だった初代で、その柚子からゆべしを製造した。つまり天任堂は方谷と縁のある菓子店だったのだ。
さらにこの書状によると、幸三郎の先代で義父、つまり2代目の延行が明治5年(1972)にはすでに商標と松山城の印を使用している。それが上の「柚餅子」デザインの「旧松山城印」。この延行は辣腕だったようで、本格的に店の販路を拡げていった。販売先は昭和初頭には岡山はもちろんのこと東京・京都・大阪・神戸、さらに群馬県と北海道にまで伸びている。そこで3代目の幸三郎が昭和2年には公式に町長の直温に申告したのだ。さらに陸軍省に納めることとなり、大儲けしたとのこと。
しかし不運もあり、幸三郎の3人息子は上2人が戦死。とくに次男は東大医学部を卒業した医者だったが徴兵されニューギニアへ出兵していたという。そこで早稲田を出てサラリーマンだった3男坊が4代目社長となり、お母上が5代目となり、6代目の碩三社長は東京で商社マンだった後、最近になって戻ってきた由。これだけの老舗でも跡取りを決めるに当たってはご紆余曲折があるらしいのだ。
しかしそれにしても書状を思い出しただけで私に連絡して下さるとは、と私がしばらく黙考していると、碩三社長が写真を私に示しながらこう語り始めた。指さす先には現在とは異なる店頭が映っている。そしてその右隣の家屋を見て、私は電気に打たれたように目を見張った。下町にある荘芳枝さんのご自宅ではないか。2階の格子に特徴がある。
碩三社長が唐突に「荘四郎」について語り始めた。直温の三男で芳枝さんの父親だ。
その人(四郎)ね、朝から晩までよく働いていました。
隣は印刷屋さんですからね。ガッタンガッタンいう音がして。そのよく働いてる人が仕事の手を休めて、うちのおかしを買って、近所の子供にね、みんなに配ることがあったんです。それで印象に残ってたんです。
(印刷は)誰がやってんのかなと子供心には思ってたんですけど、その人が突然現れて、お菓子を配るもんだから、ああ、なんか優しそうな人だなと思って。
(松原:四郎さんは道端に子供がいたりすると、天任堂さんで買ったのをあげるみたいなタイプの人だったんですね。)
そうそう、なるほど昔の人は比較的そういう人が多かったんですよ。知らない子でもね、他人の子じゃなくて、町の子は同じようなね、町で育てるみたいな、そういう感じ。他人の子はね、今は知らん顔でしょ。
昭和30年の頃。貧しかったけどまだまだね、そういう助け合いの精神というのがあったりするんじゃないかね。
亡くなったときにはね、昔は焼き場まで引いていきよったんですよ、人力で。その印象があったんで、その人(四郎)を霊柩くるまに乗せて、焼き場まで行くのに、なんか知らないけど気持ちが惹かれて・・・ 私、焼き場までついて行きよったんです。
うちの親父がね。「その荘(四郎)さんを知ってんのか」っていうんやけど、「いや知らない」って。だけど何か印象に残ってるから、何かこう気持ちがね、惹かれてついていったんだと。
なんか変ですね、そういうのね。変だけどね、そういう気持ちって人間ってあるんですよ。そういう気持ちがこの歳まで続いて、それでこの人(直温)のことを(『荘直温伝』で)知って、ああ、私がなんか惹かれる理由がわかったのかな。それだけ先祖の重みがあったのかなという。
土屋天任堂はかつて下町、それも荘家の印刷屋の隣にあった(現在の東町に移転したのは昭和34年)。荘直温は町長を務めながら、同時に下町で通りの向かい側の自宅で印刷業を営んでいた。昭和3年に直温が死去すると、莫大な借財が残された。長男の直一は水戸で大学の教員になり、四郎は借金を押しつけられ北大進学を諦めて、印刷屋の跡を継ぎ、一回り小さなこちらへと転居していた。そして昭和29年3月21日、朝は元気で出かけた出先で四郎は急死して、まだ温かい遺体として戻ってきたのだった。
私(松原)は『荘直温伝』を書き、太陽のような存在である直温に比べ、月のように地味な四郎が不憫でならなかった。山に囲まれた高梁から出て学問の志を立てる自由は長男に奪われた。代わりに墓守と借金と印刷業を背負わされたのだ。それでも黙々と仕事をして、いよいよ暮らしが上向きになろうかという高度成長期の入り口で、急死してしまった。
それでも見てくれている方はいるものだ。碩三社長は子どもながらに四郎の優しさを感じ取り、何かに惹かれて斎場までついて行き、今日まで心に印象を持ち続けてきた。そして今日、直温と四郎の人となりにつき記した『荘直温伝』に遭遇し、私に連絡を下さったのだ。四郎につき記憶に留める人がいたことで、私はホッと救われた気がした。
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居間を出て天任堂の店舗を覗くと、ぷーんと柚子の匂いがただよってきた。奥で従業員さんたちが大量の柚子を処理している。
「成羽川に沿った辺りに特約の農家さんがありましてね、11月がその収穫期なんですわ。2万個を越える柚子をいま加工して、擂った柚子皮を袋に入れて、半地下に保存するんです」。
3年ぶりの高梁訪問では荘芳枝さんの元気な顔に出会えた。そして毎年変わらぬ季節のこうした営みが、地域の香り、名産品とともに町の記憶も運んでくれていることを知る旅となったのだった。
土屋天任堂
〒716-0034 岡山県高梁市東町1877
電話: 0866-22-2538