荘直温とは

 荘龍太郎直温(しょう・りゅうたろうなおはる)は庄家28代、松山分家4代目。安政4(1857)年4月9日に生を受け、昭和3年6月1日に高梁町長辞職。同年9月3日没。明治・大正と松山村長および高梁町長を歴任し、村民・町民が新しい時代に適応するための基礎作りに尽力しました。

(本件にかんする新旧『高梁市史』、『高梁人名辞典』等の記載は多くが誤りですが、町議会の議事録を見ても明白であるのに、市は公式に修正する意思を表明していません。直温についての詳細は『荘直温伝』第2部第3章をご参照下さい)

 勲七等を受けた際に荘直温が町議会に提出した職歴は次の通りです。

 直温の行政官としての業績は、人々が市場経済という難物を乗りこなせるよう、社会制度や公共施設を整備、鉄道を誘致し、基礎学力から実学に至る知識を修得できるよう学校を設け、それも私心を捨てて町村の指導者たらんとしたところとにあったというのが松原の評価です。直温の周辺にも、そうした公共心を備える有力な人材が集まりました。

 こうした公的な業績以外で重要なものとして、桜の植樹と伯備線誘致があります。

「関西一の桜並木」について

 明治35(1902)年の日英同盟締結を記念して、現在の横町、旧藩時代の轟(がらがら)橋近くにあった総門から「和霊(われい)神社」あたりまで数町にわたる芝生堤に、直温が数百本の桜を植樹しました。品種は吉野桜がもっとも多く、八重桜、浅黄桜の各種でした。大正末期から昭和15年頃までは関西一の桜の名所と呼ばれ、俗謡「高梁名所」にはこう歌われています。

高梁名所で見せたいものは

櫻の堤に城山紅葉

夏は涼しき川原の涼み

外にないぞへ蓮花寺の雪見

 残念ながら並木は昭和15年頃に伐採されます。水害対策とも根腐れしたからとも言われますが、正確なところは分かりません。今なお健在であったならば、桜の城下町として「東の弘前、西の高梁」と謳われたと、悔やまれます。

 この櫻並木については、漢詩を掛け軸に認め、直温に贈った人がいます。ひとりは国分三亥(さんがい)太郎。検事・朝鮮総督府法務局長・宮中顧問官を歴任した司法官僚で、文久三(1863)年生まれですから直温よりも6歳下ですが、直温の前に町長を務めた国分胤之の長男という縁から、懇意にしていたものと思われます。明治43年に高梁北小学校に校舎一棟を寄付、昭和36年には高梁市初の名誉市民となっています。著書に『漸庵詩集』(万葉書房、1975)。

離 鄕 回 首 五 旬 春
夢 裡 江 山 入 眼 新
聞 道 槿 堤 櫻 萬 樹
明 年 願 作 觀 花 人
(遑前荘君乞正 漸庵国分亥)

(読み)
 郷(くに)を離れ首(こうべ)を回(めぐ)らせば 五旬の春 
 夢裏の江山 眼に入りて新たなり
 聞道(きくなら)く 槿堤(きんてい)桜万樹 
 明年願はくは花を観るの人とらんことを
(遑前 荘君 批正を賜わらん  漸庵国分三亥)


(現代語訳)
 出郷して以来思い返せば五十年、 
 夢に故郷の山河が新たに思い出される。
 聞く所では、あなたが植えた槿堤(きんてい)の桜は見事な並木となったとか、

 来年はそこで花見をしたいものである。

 

 東京など遠い地にある三亥が、翌春には高梁に帰郷したいという願い桜並木に託し、直温への思いを詠んだ詩です。

 もうひとりは山田隼(じゅん)。山田は慶応三(1867)年生まれ。山田方谷の次男の養子で、『山田方谷全集』全三巻の編集者でもあります。高梁小から備中松山藩藩校の有終館、東京帝大古典講習科に進み、二松学舎の校長をながらく務めました。晩年は高梁市大工町に戻っています。「高梁近郊三十六詠」があります。

恪 勤 不 獨 化 鄕 鄰
餘 事 風 流 也 可 人
櫻 樹 移 來 花 若 錦
高 梁 城 外 艶 陽 春
(高梁槿隄櫻樹往年 荘君所首唱栽培賦以美之次韻 濟斎準)

(読み)
 恪勤(かっきん)して独り郷隣を化すのみならず 
 餘事の風流また人に可なり
 桜樹移し来(きた)りて花錦のごとし 
 高梁城外艶陽の春
(往年高梁槿隄櫻樹 荘君の栽培を首唱する所の賦以て之を美として次韻す 濟斎準)

(現代語訳)
 町村長に精励されては郷里の人を感化するだけでなく
 余力でなされる風流事はまた人を満足させる。
 あなたが植えた槿堤の桜は今や綿のごとく見事で、
 高梁の城外は満開で華やかな春となる。

伯備線誘致について

 船と徒歩が主要な交通機関であった江戸時代が終わり、道路とともに鉄道が日本中で敷設延長を延ばすと、山に囲まれた備中はいかにも不便と感じられるようになります。山陽鉄道は明治24年に岡山まで延伸し、34年には下関(当時は「馬関」)までの全線が開通しました。明治42年には、鳥取・米子・松江間の鉄道の名称が山陰本線と制定されました。山陽と山陰で二線が並行して走り、海岸沿いは東西の行き来が陸路においても短時間で可能になったのです。対照的に南北の交通は、江戸時代とさして変わりありませんでした。

 鉄道による陰陽連結は、岡山~津山までの津山線は明治31年に実現、その先は頓挫していました。その後明治37年に登場したのが、岡山~湛井間の吉備線です。ここで津山線を延長するか、それとも湛井を延長するかに俄然注目が集まりました。しかし実現したのは双方とも異なり、岡山から倉敷を経由、そこから北上して高梁から新見に抜けるという新ルートでした。

 ここでこのルートが成羽を通るのか高梁を通るのかで猛烈な陳情合戦が起きます。直温は犬養毅と懇意の仲となり、高梁ルートが選ばれるのに貢献しました。

 『山陽新報』(現『山陽新聞』)は、大正15年6月20日付けで「開通功労者」として8人を顔写真入りで紹介しています。上段右から西村(丹治郎)代議士、則井(萬壽雄)県会議員、荘(直温)高梁町長、岡村秀治郎氏(高梁郵便局長・町会議員)、下段右から池上仙二郎氏(高梁商工会議所長)、菊楽定太郎氏(醤油醸造)、石川良道氏(高梁前町長)、徳田蕃之氏(高梁町助役)とあります。

川口写真館所蔵。駅は正面奥、南町から望む

 高梁はこの日、歓喜に沸きました。誘致に尽力した菊楽家も同様です。その様子を小説家の石川達三が「交通機関に就いての私見」(集英社版『日本文学全集64 石川達三集』1967)において活き活きと描いています(菊岡仙太郎のモデルは菊楽定太郎)。

 試運転の日、近郷近在の農夫たちは親子相連れ立ってT町に殺到した。
汽車というものを生れてはじめて見たいと思い、子供たちに見せるため町筋はすべて国旗にかざられ、バラックの駅は人で埋められた。駅長は胸に造花をつけ、町会議員は羽織であった。
 やがて定刻が来ると、日の丸を頭につけた機関車が町の下手のトンネルから出て来た。待っていた群衆は万歳を連呼し、河原からは煙花がぽんぽんと打ちあげられ、晴れた秋空に白くはじけた。汽車は歓呼をあびて駅に止り、さらに上流に向って出発した。
 ところが機関手は、意外なる事故にぶつかった。汽車が山手の屋敷街を通る段になると、近郷近在から出て来た百姓どもが何百人となくレールの上に立って見物しているのである。いくら汽笛を鳴らしてもどかないのだ。彼らは汽車の速力について何の概念もなく、轢かれたら死ぬということも知らないのだ。機関手は窓から乗り出して、どいてくれどいてくれ!と叫びながら汽車を進めた。
 「えらい騒ぎじゃ。町じゅうがもう気狂いみたいに喜んどるわい。これで私も町会議員はもう辞職じゃ。景気は良うなるぞ!」
 仙太郎の一家もまた、醤油庫の男衆や女中に至るまで、彼の喜びをちあって、菊岡家はまるで幸福の頂点に立ったようであった。

集英社版『日本文学全集64 石川達三集』1967

高梁市の「生みの親」

 晩年の直温が取り組んだ問題に「高梁、松山両町村合併」があります。伯備線が高梁を通過することが決まると、半年後の大正13年の6月26日に高梁町長の直温と松山村の中島直治郎、両町村の数名が上房郡長の寺尾哲之に呼ばれます。両名は郡役所、当時は石火矢町の西角、小高下川に面した場所を訪ねます。中島直治郎は直温が松山村長を務めていた時代の助役であり、村長としては後継者です。議題は両町村の合併で、県からの要望が背後にありました。

 直温、中島直治郞ともにすぐに飛びつくことはなく、合併の条件が慎重に模索されました。2年後の大正15年9月には県が両者を呼び、「町村合併の必要性とその効果」にかんする所見を伝えました。財政規模拡大や人件費節約を目的としていました。

 けれども在任中には合併は実現せず、直温は伯備線の誘致合戦で傷ついた対抗馬・成羽を含む地域に別の鉄道を誘致するという案件を優先します。ところが体調が悪化、昭和3年6月1日に高梁町長を辞職します。3ヶ月後の9月3日没。

 直温の遺志を継いだ町長の池上仙次郎(池上家当主)が昭和4(1929)年5月10日に町村合併を実現します。高梁町と松山村がひとつになった新生・高梁町が、昭和29(1954)年に旧「高梁市」となるのです。

 荘直温はそのように高梁市の基礎を作りました。けれども現在、そのことを知る人はほとんど高梁市にはいません。高梁は「忘却の町」なのです。