前回までの『荘直温伝』を巡って

(第一回)図版でたどる『荘直温伝』 武将期編 (2020.11.30)

 まず『荘直温伝』の舞台を地図で示しましょう。

本書の舞台
(備後落合は備中神代の誤りでした。お詫びして訂正いたします。)

 庄=荘家の歴史は、四つの時期に分かれます。

 第一期は、藤原庄権守廣高を初代、『平家物語』に登場する家長を二代とし、草壁の庄(現在の矢掛町)に定住して、ながらく猿掛城主であった武士の時代。日本史の時代区分でいえば鎌倉・室町時代にあたり、とりわけ為資・高資の時代には備中松山城主となり、一代前の元資とともに備中動乱において台風の目となりました。郷土史家が挙げる庄氏はおおよそこの時期を指します。

 第二期は日本史の時代区分では江戸時代(徳川期、1603~1867)にあたる庄屋の時代。関ヶ原の戦いで松山城を支配していた毛利が西軍を率いて東軍と戦ったため、江戸時代に松山藩は幕府の支配を受け、松山城には幕府の指示により様々な大名が送り込まれてきます。現在の備中高梁駅と高梁川の間、旧高梁市は仙石時代には川底にありました。そこから歴代城主による町割りが始まります。庄氏は幕藩体制下で武士であることをやめ、帰農して津々村に定着しました。その後、呰部、有漢、唐松、松山と分家し、それぞれ庄屋を務めました。

 第三期は、松山村・高梁町で明治から大正にわたって長を務めた荘直温(1857~1928)の時代。日本全体が薩長に率いられて近代化を急ぐ中、旧松山藩は幕末に藩主板倉公が幕府側の幹部であったため明治維新の賊軍として冷遇され、幕末期に藩政改革の支柱となった山田方谷の死後、精神的支柱を喪って、虚無状態にありました。つまり明治維新は松山藩にとって「第二の敗戦」でした。

 そうした時期に廃藩置県を迎え、家業の庄屋を廃業した直温は、地方行政の道を邁進し、地元の名士たちとともに産業振興を軸として近代化を推し進め、松山村・高梁町(旧松山藩地域)の立て直しを図りました。その最大の仕事は伯備線を誘致し備中高梁駅を開業したことでした。

 第四期は私財を投じて高梁町の近代化に尽くした荘直温の死後、残された膨大な負債を負った三男・四郎と、孫である芳枝が生きた昭和から平成の時代です。

 高梁町は大正時代まで江戸期と変わらず本町・新町を中心とし、外部との交通手段は高瀬舟(高梁川)でしたが、そうした手工業と舟運の時代は、大正末に伯備線が誘致されたことにより鉄道が主体となって一変しました。町の中心は駅近くに出現した栄町商店街へと遷り、本町・新町地区は寂れていきます。けれどもそうした隆盛も高度成長期をもって終わり、交通手段が自動車に替わると、物流の中心はさらにスーパーのポルカを中心とする西に遷ります。それにともない栄町は寂れてしまいます。

 今回はその第一期を、津々由緒書および松山由緒書の記載から辿ってみましょう(ただし二つの由緒書の成立が仮に幕末頃とするならば、その記述じたいが『備中兵乱期』のような軍記物の影響を受けている可能性があります)。

 松山由緒書は冒頭で、庄家の租が庄権守藤原広高だと述べています。「権守」は律令の官制における内匠寮(天皇家の調度品や儀式用具などを作製した職人)などの長官ということで、藤原広高はそれを辞し、帯刀して武家になりました。児玉党は武蔵国に割拠し武蔵七党と呼ばれた武士団群において最大勢力を誇り、本拠地は現在の埼玉県本庄市で、藤原庄権守広高はそうした武士団を束ねる旗頭でした。

 そして四代を経た高家と家長は、源平合戦において源氏側で出陣します。敗走していた三位中将を塩谷(現・塩屋。一ノ谷の西)の浜で生け捕ります。重衡といえば平家のナンバーツーで、奈良や大仏を焼き払った大物です。

 源平合戦において源頼朝は、新たに「御恩と奉公」というルールを考案しました。合戦で武勲を挙げた者には、恩賞として土地を与えるのです。私はこれを、「首土地交換制」と呼んでいます。

 こうして家長は現在の小田川の流域で小田郡矢掛町横谷周辺、「草壁の庄」と呼ばれたあたりに館を建てます。庄氏は山麓に猿掛城を築き、以後、350年以上、ここを拠点とします。日本史の教科書用語では、庄氏は本舗地頭に当たります。

 これ以降、家次から有次までは、東国の武士団の動静を詳しい『吾妻鏡』にしばしば登場します。庄氏本家は将軍の近辺に詰める格を与えられました。在京して細川京兆家の周辺に詰めていたこと、つまり細川京兆家の被官(家来)であったと推測されます。

 一方、小田川沿いで勢力を拡大していく庄氏は、分家(庶子)であったようです。庶子は備中で縁戚関係にあった石川氏とともに守護代を務めました。今で言えば、庄一族はさしづめ国家公務員と県庁職員を輩出する名家といったところです。

 庄氏は守護代としての矩を超えた活動に踏み出します。もともと地頭は幕府と主従関係にあった荘官で、地頭給田を与えられていましたが、それには飽き足らず次第に荘園や国衙領に「」するようになりました。押坊とは他人の所領に押し入って乱暴したり不当に課税することで、これに耐えかねた荘園や国衙の領主は幕府に訴えています。

 細川氏が形だけでも守ろうとしていた荘園公領制は、実質的に崩壊に向っていました。京兆家内衆としての庄氏本家もまた、守護代庄氏の勢いを制しませんでした。

 ここで「備中大合戦」と呼ばれる大事件が起きます。備中守護代であった庄伊豆守元資が、延徳三(1491)年10月21日、備中守護細川上総介勝久の被官たちの居所を急襲したのです。「全部で五百人ばかり討ち死にす」とされます。この報を受けた備中守護の細川上総介勝久は年末に京都から兵を集めて備中に戻り、猿掛城を包囲します。猛烈な反撃に庄元資は城を捨てて逃走しました。

 ただし、これは私の推測ですが、備中大合戦を起こした庄伊豆守元資と本家の庄駿河守元資は、年齢の離れた別人物です。理由は『荘直温伝』に詳述しましたので、ご覧下さい。

 備中大合戦が示唆するように、16世紀の初頭には荘園公領制や細川家による実行支配が風前の灯火となっていました。こうして戦国時代の火ぶたが切られます。

 1240年に有漢の秋庭三郎重信が大松山に築城。秋庭氏は90年間、5代の城主となります。次いで1331年からは高橋宗康が城主となり、彼らが城を小松山まで拡張します。高師秀が守護職となった後に、再び秋庭氏が5代、140年間城主となります。こうして逐次出来上がっていったのが備中松山城です(といってもこの山城は戦時の砦ですから、平時には麓の御根小屋、現在の高梁高校の位置で執務しました)。

 その後、上野頼久・頼氏が守護代になり、松山城に、庄家15代目の庄備中守為資が攻め入りました。天文二(1533)年に高梁川を北上し、実弟である植木下総守藤資とともに松山城を攻め立て、大松山、小松山を獲得しました。その上でみずからを備中守と号し、備中一万貫の領主となりました。為資の松山城入城は、武将期における庄家の頂点を画する出来事です。

 為資は松山城の周囲に点々と山城を築き、一族を配していきます。ところが備中は外から狙いを付ける戦国大名たちによって、包囲網を敷かれたような情勢にありました。ここから40年間にわたり、松山城の争奪戦が続くのです。

 西からは安芸の毛利氏。北からは出雲の尼子氏。そして東からは備前の宇喜田(浮田)氏。彼らが虎視眈々と松山城および高瀬舟の交通網を狙っていました。この時点から、外部のどの勢力と組むのかで、庄氏の敵はめまぐるしく入れ替わります。

 庄氏が松山城主であった期間は38年間で終わり、勝資、秀資らは尼子の勢力下である雲州ヘ身を寄せることとなりました。備中といえば庄氏を追い落とした後に中心となる三村氏の『備中戦乱期』が有名ですが、その下りも『荘直温伝』に詳述しました。

 庄市之亮資直の元に、天正五(1577)年、一通の驚くべき書状(朱印状)が届きます。差出人は織田信長。印章には「天下布武」(天下に七徳の武を布く)とあります。「その方面に出陣すること。それにつき羽柴筑前守(秀吉)を派遣するので、全て羽柴の意を汲み、忠節を尽くすことが肝要」、といった内容です。

 信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、その遺志を継いだ秀吉が数々の戦いを経て天正19(1591)年、天下を統一します。毛利は和睦にもとづき領国割譲を要請、西伯耆と備中高梁川以西の広大な地域を領国としました。

 ところが慶長三(1598)年、秀吉が没すると、慶長五(1600)年には豊臣政権内部の政争から、関ヶ原の戦いが勃発します。西軍は秀吉との縁からか毛利輝元が総大将で、宇喜多秀家・石田三成らが続きます。東軍は徳川家康が中心でした。ここで西軍が勝てば毛利幕府の誕生となったところですが、残念ながら東軍が勝ち、徳川幕藩体制の幕開けとなりました。

 毛利は関ヶ原の戦いで西軍の大将として一敗地にまみれたために、徳川政権においては備中の領地を没収され、元の防長二国まで退却させられました。これまでの備中一円の闘いは何だったのか、と呆然とさせられる結末です。そして庄家は・・。

 続きは第二回で。次回は現在の「草壁の庄」、五つの庄家のその後を訪ねる形で江戸期の庄家をご紹介します。

(第二回)写真でたどる『荘直温伝』 分家・庄屋期編(2021.01.10)

江戸時代の松山藩と庄家

 庄家は為資の代で1533年に備中松山城の城主となり、備中を制覇しますが、その後西からは安芸の毛利氏、北からは出雲の尼子氏、東からは備前の宇喜田氏に狙われます。庄家は38年間城主の座にありましたが三村氏に城を明け渡した後は毛利氏の麾下となり、毛利氏が関ヶ原の戦いで西軍の大将として大敗し備中を手放したために、誰かの配下で安定した地位を得ることがかなわなくなりました。

 そもそも戦国時代の大混乱は、鎌倉幕府を開いた頼朝が敵将の首級を挙げた者に土地を与えるという原則を掲げたために惹起されました。農地を保護し農民に開墾と耕作に専念させるためには、この原則を徹底して解除しなければなりません。幕藩体制を築くに当たり家康がもっとも腐心したのは、力を付けて挑戦してくる者が二度と現れないような体制を築くことでした。そこで家康が合戦終了からの2年間で断行したのが「大名の大異動」でした。

 さらによく知られるのが藩の配置で、中部と関東・畿内という中枢部には、尾張・紀伊・水戸の御三家(親藩、徳川の近親)と、関ヶ原以前から徳川家に使えてきた「譜代」が置かれました。また外様同士が接触したり協力できないよう、その間にも譜代が割り込んで監視しました。さらに戦国大名が再び「おやかた様」として心を寄せる同族および領民を率いることがないよう、領主と領民を結びつける歴史的な紐帯を断ち切り、幕府が所有する土地を貸与して経営させる「官僚大名」へと改心させました。

 江戸時代においては、幕府が改易や所替えを駆使しつつ、大名たちは幕府から指名されて備中松山藩を統治しました。まずは小堀氏二代が代官となり(1600~1616)、以後、池田氏が入封しのちに除封(1617~1641)、水谷三代が入封しのちに除封(1642~1693)、安藤・石川が入封しのちに転封(1695~1744)、板倉氏八代が入封して統治(1744~)され、1868年の明治維新を迎えます。

 1600年代は積極的に社会経済の環境整備が行われた成長の時代で、小堀氏二代から池田氏の時代まで、松山の城下町ではまちづくりが行われました。ここで現在につながる町割りや道が設定されました。

 次の水谷三代は公共事業の時代で、松山城を改修し、麓に御根小屋を建設しました。高梁川が瀬戸内海に注ぐあたり、玉島に松山藩の領地を飛び地のように持ち、新田や塩田を開拓、港を整備しました。その上で高梁川とつなぐ水路を開きました。上流から下ってくる高瀬舟からいったん松山で荷を降ろさせる「継舟制」を制定し、流通に税を掛けました。また商品を高瀬舟で河口まで運び、玉島港で瀬戸内海の西回り航路に載せ替えて、大坂や江戸へと送りました。

 ところが1600年代の末頃までに生産性の高い未開墾の土地がなくなると、原初的な稲作では総収穫量は頭打ちになります。それとともに、政策は収穫の成長を引き出すよりも、現にある収穫から税をいかにかすめ取るかに力点を移動させます。安藤・石川時代から板倉八代の時代まで、耕地の拡大も技術の革新もないままに、除封・転封のたびに検地を課し、収税を増やそうと試みるも、ない袖は振れず、強訴が頻発します。

 農民は城下町には住みませんでしたが、生活用品を作る桶屋・木地屋・塗師、建設関係では大工・左官・建具、衣類では紺屋・機屋、その他醤油屋・酒屋など商工業者が、道を隔てて連なる町家に暮らすことになりました。転封で引っ越してきた家中と土着の町家では話す言葉も異なり、垣一つ隔てただけでも交際はありませんでした。高梁町は「士」と「工」「商」、松山村は「農」という住み分けだったかと推測されます。

 こうした時代背景のもと、庄家は武士から帰農し、20代目の「直明」が庄姓を捨てて「津々」に改姓します。その後、津々本家から時々に分家が生じていくのです。

津々本家  
呰部分家津々本家から直重が分家1698年
有漢分家呰部から直亮が分家1784年
松山分家有漢から直英が分家寛永年間(1789~1801)
唐松分家津々本家から分家委細不明

津々本家

 津々本家は、農戸二代目の時点では津々村の庄屋になっています。毛利氏が備中を去る際、家臣であった土豪のうち、毛利とともに周防へ移った者もありましたが、大部分は備中に残り、武士を捨てました。けれども土地の名家として民衆の信頼が篤く統率力があったため、推されて庄屋になる例が少なくありませんでした。津々の庄家もそうだったのでしょう。

 津々はもともと為資が信頼する弟、植木下総守藤資に斉田城を任せて以来、幾度もの合戦を繰り広げて死守した土地柄です。現在はその斉田城跡地から自動車で10分ほど行った辺り、車道からは奥まった場所にあります。

 職務には、次のようなものがありました。他藩の大名等が検地を命じられた際、以前の検地帳を説明したり、現場で案内すること。村内の土地の一つ一つにつき検地帳に記載された石高と管理者を確認し、納入する年貢額を確定すること。年貢を取り立てて納めること。村内のすべての家について戸籍を調査(棟付改(むねつけあらため))し、分家などの経緯、家族の氏名・年齢・続柄、夫役の有無、牛馬の数といった結果を報告すること。幕府や藩からの法令・命令を伝達すること。村人の証文に奥書して保証すること。もめ事の調停をすること、等等。税務・戸籍・公証人・裁判所をすべて兼ねるような多忙な職務です。そしてそれらの膨大な記録は、筆に墨で書き留められました。

 五代将軍綱吉の贅沢三昧で幕府財政が傾くと、幕府は大名が除封・転封するたびに検地を義務づけるようになります。水野勝美が夭逝した翌月、養子の勝晴もまた13歳で急逝してしまいます。水野家は急遽、勝美の弟である勝時を勝美の養子にすべく願い出たのですが、卒後(死後)の養子は許されぬと突っぱねられ、領地没収、家臣離散となりました。

 そうして元禄検地が実施されたのですが、それは驚天動地の過酷さでした。検地に先立ち、庄屋はこう申し渡されました。村の百姓で正直な者を吟味し、案内人として差し出すこと。その案内人から誓紙を取り、各村で田畑の位付けの帳面と従前の位付けの書き付けを差し出させること。検地前に田の水は干すこと。検地現場には案内人と地主以外には出てきて騒がないよう、村で固く申し合わせること。検地役人の宿舎を決めておくこと、等等。

 元禄7(1694)年4月、姫路藩主本多中務大輔忠国が、松山領の検地を命じられます。津々村を例にとりますと、石高が正法元(1644)年の「正保(しょうほう)郷帳(ごうちょう)」においては530石余りだったのに、、松山検地の結果が記された「元禄検地帳」(1700年頃)では1055石と倍近くに跳ね上がっています。松山藩には翌元禄8(1695)年5月に高崎から安藤氏が入封していますが、検地はすでに終わり、あとは年貢を取り立てるだけで、安藤氏にはどうしようもありません。

 安藤氏は高崎からの転封ですから、高崎市役所がまるごと高梁市役所に移転、すぐに徴税させられたようなものです。城主やその家臣たちにしても、地元に詳しい庄屋から経緯をヒアリングするしかなかったのです。

 農民代表は姫路に出かけ、検地結果の再検討を求めるため、意を幕府に取り次ぐよう願い出ました。けれども姫路藩は、下知されて行った検地であるから取り次ぎなどできない、と突っぱねます。結局、領内の庄屋が総代となり、庄屋総代に直法が含まれていたのかは分かりませんが、江戸へ直訴しようということになりました。

呰部分家

 呰部は為資が山の上に開基した上合寺が、現在は県道58号線北房川上線から少し入ったところの平地に降りています。58号線を自動車で10分ほど南下し、路肩に数件、造り酒屋やカフェがある中の一軒に「北房ほたる庵」があります。地産地消をモットーとする和食レストランで、古民家を再生した地域コミュニティ施設です。その玄関に、なんとここは庄家呰部分家であるという旨が掲示されています。

 この建物には文政八(1825)年築という棟札があり、分家後127年経って建てられたのがこの建物です。幾度か部分改修して現在に至ります。庭も瀟洒で、優美な屋根瓦からは往時の隆盛が偲ばれます。写真は備中川沿い、「井弥の穴」の隣にある墓跡(撮影・松原隆一郎)です。

北房台 井弥の穴脇にある墓跡

有漢分家

 享保20(1735)年生まれの直亮がいつ分家したかは分かりませんが、明和元(1764)年、29歳で村役を仰せ付かっています。その後、安永四(1775)年に40歳にして御勝手御内用方御用懸り(大名家における財務・会計担当役人)となり、農戸といっても役人、それも上級の藩役人となりました。
 寛政三(1791)年、板倉四代周防守勝政の元で士格を与えられ、月の半分は(藩札の発行を司る)札座(ふだざ)役所相詰めとなって、松山では中之町明屋敷に住みました。藩の金融・財政を司る役職に就いたのです。札座頭取吟味役に上り詰めます。後に山田方谷も就くことになる、藩の金融行政のトップです。加増を重ね、高は130となりました。

 有漢分家2代目の庄猪太郎は、父である直亮が板倉周防守勝晙(かつあき)に願い出て、17歳から藩で働くようになりました。寛政十二(1800)年に広間御番入り(役職付き)、享和弐(1805)年に二人扶持となって馬術出席、同四(1807)年に御山城近辺山火事で対応と藩行政に精勤したものの、これも27歳で亡くなります。

 文化四(1807)年に70石の跡目を継いだ有漢分家3代目の庄半は養子で、やはり御広間御番入り、有終舘釈祭で雅楽相心懸けと勤め、やはり文化十(1815)弐年に早世しています。このように有漢分家は庄屋というよりも、藩の行政官といえる家系でした。

松山分家

 直英は寛政年間(1789~1801)に原西村の庄屋を仰せつかっています。ここから虎蔵直亭、菅助直則と三代が庄屋を営みます。ところで原西村と庄家の家屋はどこにあったのでしょうか。

 『高梁市史』によれば、藩時代の村の地図に原西村と原東村があります。現在の地図との対比がないためこれだけでは現在のどこを指すのか分かりませんが、確かなのは原西村が近似の東側、原東村はその南側で「玉」の北側となっていることです。

 現在の「国勢調査町丁図」に重ねてみると、旧松山市中が「昔の村」図の空白部に相当するのは間違いありません。高梁川の南側は、現在は玉川町です。これが昔の村名「玉」でしょう。というのも「玉」の上右の境界線は、高梁川の形と一致しますから。となると原東村は、ジグゾーパズルのように組み合わせて、現在の町丁図における「松山広瀬+松山河内谷+下谷町+上谷町+上谷楢井+松山大久保+松山山の上+松山玉坂」となります。

 菅助直英は1833年に亡くなり、虎蔵直亭が庄家26代目、松山分家2代目となり、天保6(1835)年に村役に就いています。虎蔵は天保九(1838)年の検地に際し、事前に村を巡回する藩役人を案内しています。検地については詳細かつ正確な数字を書き残しています。

 具体的には『荘直温伝』をご覧いただくとして、結論だけ述べれば、440石5斗2升9合6勺。これを200軒967人で分けています。一人当たり年間約4斗5升5合6勺、455.6合ということですから一日当たり1.24合。理想とされる一日5合の四分の一で、1日に茶碗3杯弱ですから、相当に貧弱であったようです。原西村は貧村でした。

 幕末の慶應2(1866)年は大凶作で、食糧事情が逼迫しました。しかも明治維新に際して松山藩は朝敵であると疑われ、池田藩が新政府から任じられて鎮撫総督となり、一年一ヶ月にわたり占領されました。農民がのべ28.3万人にも上るその駐屯費用を負担させられました。

 そうしたさなか、現場では無数の混乱が生じていました。明治元年2月から3月にかけ民心は極度に不安になり、領内各地で暴動が起きたのです。もともと旧松山藩でも、改易・転封があるたびに、農民が藩の出先機関である庄屋に押しかけるということが、慣例のように生じてはいました。改易・転封には検地が伴うことが慣例となっていたからです。そうした中で起きたの「野山西村一揆事件」でした。

 3月7日の夜も更けた頃、野山四か村(西村・宮地・北・岨(すわ)谷(たに))から農民400~500名が竹槍を抱え、ぞろぞろと庚申山に上りました。やがて気勢を上げると、山を下り谷を渡って西村庄屋にたどり着き、周囲を取り囲みました。

 あらかじめ待機していた旧藩の代官は、何を言いたいのかと尋ねましたが、群衆は聞く耳を持ちません。竹槍や棍棒を手に屋敷内になだれ込み、押しとどめんとした同心たちを乱闘の渦にまきこんで、検地帳や年貢皆済帳を奪い取り、建具や家具、調度類を打ち壊し、土蔵からは道具を引き出して、瓦をめくり落としました。

 やがて小康状態が訪れます。説得に応じ、二人三人と山を下ります。野山西村の甚介・林三郎以下9名が一揆の首謀者と目され、逮捕されました。その「口上書」では、一揆騒動の直後に「不調法」つまり年貢等の運営にかんする手落ちがあり、利解(説得)も行き届かなかったということを認めています。野山西村の庄屋・肝煎・見習ら6名は辞表を提出していました。ここに庄菅助(菅介)の名前が「御庄屋兼帯」として出てきます。隣の松山西村で庄屋を務めていたために一時的に野山西村の庄屋を兼任し、この嘆願書を受理したのでしょう。

 以上、江戸期に庄屋であった庄家の本家と分家は、「雇われ社長」のようにまったく別の場所から転入させられた城主や家臣たちと、現地の農民との間に立ち、年貢を集めるだけでなく、実質的に両者の調整の大役を担っていたのでした。

(番外編)神戸市長 久元喜造氏が「荘直温伝」を取り上げて下さいました。

 松原の中高の先輩にあたる久元喜造氏が「荘直温伝」をブログにて取り上げて下さいました。現役で地方自治に奮闘される氏の感想は興味深いものです。

(第三回)図版でたどる『荘直温伝』 直温死後と高梁の現在 (2021.2.18)

 伯備線誘致の効果

 荘直温は持病が悪化したのでしょう、昭和3年6月1日に高梁町長を辞職、3ヶ月後の9月3日に没します。葬儀は当時の松山村の薬師寺で行われ、多くの感動的な弔辞が読み上げられました。直温がいかに慕われていたのか分かります。ところが直温を直接に知る人がいなくなると、その名前は速やかに忘れられます。

 私(松原隆一郎)が『荘直温伝』を著した目的は、市役所が名前の読み方を間違えるほど知る人も稀になった荘直温が町に尽くした業績を振り返り、広く世に伝えることでした。それが私に対する荘芳枝さんの依頼でした。役所も学者も、誰も直温にかんし正確な情報を残そうとしていないからです。

 町政の目標にもいろいろあるでしょうが、大正から昭和初期にかけては、町税収入を安定させることがその1つでした。

 直温死後の昭和16年頃からそうした町の自立は地方自治の目標からは外れます。国や県が財政赤字を補填することが制度化されていくからで、それ以降の地方自治体は自立心をなくし、1990年頃から「地方分権」「地方創生」という形でふたたび自立が求められるようになるものの、現実には自立できる地方自治体は多くなく、人口減が進み東京一極集中が顕著になります。

 高梁市もまた人口減に悩まされる地方自治体のひとつです。それは直温が生前に目指したような自立への意志をながらく失ってきたからでしょう(それは国の方針ゆえであって市のせいではありませんが)。

 直温が私財を費やしまでして精力を傾けたのは伯備線駅の高梁誘致でしたが、それが高梁の町税拡大に役立ったかについては検証してみる必要があります。

 豊かさを示す変数としては(一人当たり)所得が適当ではありますが、市町村では計測・公表されていません。また地価も所得の代理変数有力ではありますが、近年はともかく、戦前となると入手は困難です。そこで町税収入(歳入)を所得総額の代理変数とみなし、伯備線が開通した大正15年前後でそれがどう推移したのかを、高梁町・成羽町・新見町で比較してみます。もし高梁の歳入が、鉄道が通らなかった成羽とは異なる(それも良い方向で)推移を辿り、通った新見と似た推移を辿ったとすれば、高梁は成羽と競い合って誘致に成功したために恩恵を受け、成羽はその恩恵を逃したことになります。

 最初は、高梁における歳入の推移です。

(図1)

 私が作成した図によれば、高梁の歳入は基本的に右肩上がりで推移しています。次に新見の歳入を見ますと、阿哲郡全体も新見町単独でもやはり基本的に右肩上がりです。

(図2)

 伯備線が通過したこれら高梁・新見の2町に対し、成羽は歳入がとりたてて成長は見て取れません。これら3町の歳入推移を比較する限り、やはり伯備線誘致の効果は大きかったのです。

(図3)

 直温を中心とする鉄道敷設構想

 高梁町と成羽町はいずれを伯備線が通過するかで激しい誘致合戦を繰り広げただけに、成羽が落胆したのは想像に固くありません。伯備線が高梁を通過することが年初に決まった大正13年9月24日の『山陽新聞』には、こんな記事が掲載されています。

 ❝日に月に衰頽の成羽 町民緊褌の秋❞
 躍起となって争奪した彼の伯備線が真に成羽の死活運命を左右するものであったとすれば、その鉄路から見捨てられた成羽は方(まさ)に死の境地に陥ったと云へやう(略)

大正13年9月24日 『山陽新聞』

 「鉄路から見捨てられた成羽は方(まさ)に死の境地に陥った」などといった表現を新聞が掲載することは、現在ではまず考えられませんが、住民の心情をあけすけに著してはいるのでしょう。ただ、そのように明暗が分かれたのだとすれば、高梁と成羽の両町に根深い遺恨が残って不思議ではありません。直温が伯備線の高梁誘致に尽力した功労者だとしても、それだけでは隣り合った2つの町で対立を促したことにもなります。

ところが私は非常に興味深い資料を見つけました。昭和2年2月2日付けの『山陽新聞』によれば、直温は高梁駅が開業した大正15年6月の半年後、暮れも押し詰まった12月30日になって、請願書を鉄道大臣と両院(貴族院・衆議院)に送っているのです。

 鉄道敷設に関する請願

岡山県上房郡高梁町長荘直温等 謹んで閣下に請願仕り候(以下略)。

 この中で直温は、「岡山県の僻地に在り 世の文化に遅れたる不幸の人民をして昭代の恩沢に 浴びせしめられん事を」とも述べています。連署しているのは松山村長・津川村長・川面村長・中井村長・中津井村長・呰部村長・上水田村長・水田村長・有漢村長、巨瀬村長・上竹荘村長・下竹荘村長・吉川村長・落合町長・木山村長・美川村長。つまり現在の県道313号線に沿って鉄道を敷設て欲しいという請願です。

 ここで前提となっているのは、伯備線開通以外では作美線の延伸です。作美線は、当初は姫路から津山までを繋いでいましたが、大正12年に津山から美作落合まで、13年に久世まで、14年に中国勝山駅まで着々と延び、その先の岩山から新見までが昭和4年に開通することになっていました。それまでの作美線は作美東線、新線が作美西線と呼び名を変え、さらにその先で新見から東條まで芸備線が延びる予定でした。それに対して鉄道の空白地帯となる美作落合から南下して備中高梁に至る地域に鉄道を敷いて欲しいというのが誓願の内容でした。

(図4)

 では直温は成羽を見捨てたのか。そうではありません。『成羽町誌 史料編』によると、それよりも半年早い大正15年の3月に、直温が先導して若槻礼次郎総理大臣、仙石貢鉄道大臣らに「高梁・東條間鉄道敷設に関する請願書」を提出しています。そこには松山村長の中村直次郎の名も見え、成羽始め東條に至る沿線の村長が連署しています。こうした請願は直温の逝去の後にも遺志を継ぐかのように継続され、昭和3年、4年と次の高梁町長である池上仙二郎(現在の高梁商家資料館である池上家の当主)が先導して提出しています。

 こうした動きからする限り、直温・池上仙二郎の構想は、作用線・伯備線から取り残される美作落合-高梁ライン、高梁-成羽-東條ラインにも鉄道を通し、高梁がこの一帯の中核都市となることだったと思われるのです。

 戦後においても地方自治体の長は様々な施設を誘致することこそがその手腕であるかに言われてきました。それに対して直温らは、たんに我が田に水を引くだけでなく、周囲の自治体も含めて備中の繁栄を目指していたようなのです。

 直温の手腕

 これは備中の広域におよぶ目配りですが、高梁町の内部にも細かい配慮が及んでいました。私がそれを知ったのは、古文書を読み進めていた時でした。大正13年の暮れも押し迫った頃、直温は地権者たちから感謝状を贈られていたのです。

 高梁町長 荘直温君足下

(前略)之れ曽(かつ)て我町が葉煙草専売所設置当時敷地買収に多大之痛苦紛難を嘗(な)めたる経験に徴しより以上の困難に接すならんと心ひそかに危惧を抱くものすらなきにあらざりしか如し 而して本年五月該問題に関し関係地主一同会合するや協定委員八名を挙げ之れが折衝に当らしむることゝなし更に足下を煩はすに其交渉の任を共にせらんことを以てす 足下(そっか)(注;貴殿)快く之を諾(だく)せられ国建設事務処当事者と協定委員との間に立ち周旋尽力至らざるなく事情の陳述論議の応酬能(よ)く其処(そこ)を得円満に本問題をして結末に達せしめられ今や町内に於ける線路工事支障なく其緒に就くに至れるもの之れ全く足下の献身努力によりたるは我㑪一同の深く感謝する処なり 爰(ここ)ニ聊か慰労の意を表し別帋目録の祈念品を座右に贈呈す物甚だ薄く足下の意を満たすに足らざるは明なりと雖も足下幸に物菲にして且微なるを尤(とが)むるなく我㑪の衷情のある所を採納し給はらんことを希ふと云爾(のみ)

 大正十三年十二月二十六日

 在高梁町    伯備線鉄道用地関係一同

 実際、伯備線が通過したことにより、武家屋敷を中心として多くの家屋が取り壊されました。それにもかかわらず地権者を円満にまとめ上げ、彼らから記念品を贈られたのです。これは、一部のみの要望を容れるのではなく、全員の望みを可能な限り受け入れて、全員が繁栄することを指針としたからなのでしょう。

 その結果、当時は町外れにあった備中高梁駅前には昭和に入って道ができ、旅館などがポツリポツリと営業を始め、次第に商店街が姿を現しました。栄町大通りは高度成長期を経て、高梁の中枢部として町の経済を担います。こうした賑わいは、昭和の終わり頃まで維持されたのでした。

(写真1 賑やかだった頃の栄町大通り)川口写真館提供
(写真2 現在の「ギフトショップ松栄」)が映画館だった頃)川口写真館提供

 高梁の現在

 私は2018年末に初めて高梁を訪れ、美しい景色や興味深い歴史と出会いました。御根小屋を想起させる高梁高校の岩壁。麓まで自転車で行き、歩いて登る松山城。「仕入れ値はタダ」と猪鍋や松茸を振る舞ってくれる猟師。江戸時代はどれほど美しかったかと想像させられる本町の古民家。縁側・庭園・借景となる山並みが三位一体となった頼久寺の景観。神尾洋品店のでかい学生服に栄通りを抜けたところの駄菓子屋。なくなってしまった「紅緒」の美しい内装。木造の基督教会。それらはおいおいこのサイトで表紙にしていこうと企画しています。
 
 ところが現在の高梁は、残念さが目立ちもします。外部の者が少しでも批判すると拒否反応を起こす地元の方がいるものですが、私が以下に述べるのは批判というよりも残念に思う気持ちであり、なぜ高梁の美点を活かそうとしないのかについての疑問です。そうした疑問を2つ挙げましょう。

 備中高梁駅前にある栄町の商店街がこのような状態になっています。いわゆる「シャッター通り」です。

(写真3 現在の栄町)

 このような現象が生じた背景には、交通手段の変遷があります。駅が開設されてからは、町の中心は高瀬舟の発着所である本町から備中高梁駅へと移動しました。高瀬舟から鉄道へと交通手段が変更されたのは、時代の流れとしてある程度までは覚悟されていたことでしょう。けれども1970年代初頭の高度成長期終わり当たりから自動車が交通手段として重視されるようになると、さらに町の中心は移動しました。

 1990年には駅のずっと南側(ポルカ天満屋ハピータウン)や川向こうに駐車場を擁する巨大スーパーが登場し、顧客を奪うと、町の中心が南へと移動したのです。

(図5)

 これを「栄町大通り商店街がショッピングセンターとの競争で負けた」と表現するのは正確ではないでしょう。なぜなら栄町商店街に店舗を構える店も、ポルカやゆめタウンに出店したからです。しかし当初は新規の顧客が増えたとしてもショッピングセンターの支店は家賃がかかり、一方で栄町の店舗の方は需要が減っていきます。

 なぜ栄町商店街を再開発しなかったのでしょうか。駐車場を造り、ショッピングセンター並みにリニューアルした店舗を作れば、自動車が主になっても繁盛したはずです。ところが地権者が多く、話はまとまりませんでした。賃貸で出店している店は賛成したでしょうが、住居を併設している店は、リニューアルしても住まいがなくなると困ります。結局は話がまとまらず、現在のシャッター通り化に至ります。店は閉店し、次に賃貸で貸すわけでもなく住まいになっていったのです。この先は、市場が住宅街になってしまうのでしょう。

 実はこうした現象は高梁特有ではなく、全国の「シャッター通り」で共通しています。競争に負けたというよりも、商店街の住民が「市場」であり続けるよりも住宅を選んだのです。けれどもそれは、まちづくりとしては破綻しています。駅前の一等地から商店街消滅し、旧市街に住む高齢者にとっては徒歩で買い物に行くことが困難になったのですから。

 「市場」というのは日用品を揃えるための公共の場所のはずですが、私用の土地として転用されたのです。鉄道用地の買収で全員を「ウィン・ウィン」にした直温がもし1990年代に生きていたなら、駅前市場を公共の場所(コモン)ととらえ、駐車場付きのショッピングセンターとして再生させるべく、なんとか話をまとめ上げてたのではないでしょうか。そのような「公のための政治」が欠けていたのだと思います。

 そのような「公のための政治」が欠けている例をもうひとつ挙げておきます。写真4は市役所が経営する高梁国際ホテルの玄関先に設置されている看板です。「ここから松山城がよう見えるで!」。ご丁寧に「高梁PRIDE」とあります。

(写真4)

 しかしそこでくるりと振り返ると見える景色は、相当に間が抜けています。電柱が邪魔になり、山頂の松山城天守閣が隠れて見えないのです。「天空の城」は、観光客誘致の目玉です。この光景が市役所にとっての「高梁プライド」だというのです。

(写真5 電柱で松山城が見えない市道)

 私は国の「無電柱化推進のあり方検討委員会」の委員でありますので本件についてはもっとも詳しい人間かと思います。その視点からすれば、次の写真は相当に寂しい光景ではあります。国際ホテルがある市道と駅前で直交する県道の様子ですが、そこには電柱が見当たりません。遠景に山がすっきりと見通せます。なぜ市道をこのように無電柱化しなかったのでしょうか。

(写真6 無電柱化された県道)

 無電柱化は、現在の「共同溝方式」では、電線を地下に埋設する時に費用を国と道路管理者と事業者(電力・通信)がほぼ1/3ずつ負担します。道路管理者は市道だと市、県道だと県です。したがって写真5は高梁市が財政的に費用負担できないために生じた光景であり、写真6は岡山県が費用負担したために良好になった景観といえます。

 だがこれは、市が県と交渉して費用を付け替え、「松山城が美しく眺望できる」という目的のために市道の方を無電柱化すればよかっただけの話です。それを実現するのは市政の手腕です。高梁市が本当に松山城を国際ホテルに泊まる観光客に見て貰いたいと思うなら、そうした考えが生まれても不思議ではありません。けれども残念ながら、高梁PRIDEの看板を建ててしまうのが現在の市政の意識なのでしょう。

 ここでも、東京に出向き、犬養毅に掛け合って伯備線誘致を成功させ、さらには成羽も含む一大鉄道網構想を持った直温を思い浮かべます。国に対しても臆することなく交渉を持ちかける。それが政治家の役割でしょう。今の世に直温がいたならば!!と感じる所以です。

(第四回)『荘直温伝』紹介記事・書評

 今月は昨年6月の『荘直温伝』出版時の新聞記事を、それぞれの新聞社の許可を得て公開します。

山陽新聞 2020年6月14日『荘直温伝』紹介記事 (2021.0309)

<荘直温の生涯 後世に>
 私が死んだら消えてしまう祖父の生涯を後世に伝えたい―。高梁市下町の元小学校教諭荘芳枝さん(94)の切なる願いに応え、大正末期から昭和初めに旧高梁町(同市)の町長として地域発展に尽くした荘直温(1857-1928)の伝記を放送大学教授松原隆一郎さん(63)=東京=が出版した。(太田隆之、小林貴之)
<地域発展尽くした旧高梁町長>
 松原さんに高梁とのゆかりはないが、神戸市で多くの事業を興した自らの祖父・松原頼介(1897-1985年)の伝記を2018年に出版。これを知った芳枝さんの熱心な依頼に動かされて同年12月に初めて高梁を訪れ、1年がかりの粘り強い現地調査の末に、鎌倉時代までさかのぼる一族900年の歴史ロマンを交えた「荘直温伝」として出版した。
 松原さんの調査では、直温の先祖は源平合戦の恩賞で備中に赴任。猿掛城(倉敷市、矢掛町)城主を経て松山城(高梁市)城主となったが、関ヶ原の合戦後に武士を廃業した。江戸時代は代々庄屋を務め、直温も37歳から20年も松山村(現・高梁市)村長を務めた。71歳で病死する3ヶ月前(辞任)まで2期5年は、激動期の高梁町長として伯備線の備中高梁駅開業(1926年)にも尽力。当時の山陽新報(山陽新聞の前身)は「生涯を通じて自治の為めに奮闘努力。その治績は枚挙に遑がないが鉄道の開通から教育機関の完成など悉く君の手腕」とたたえている。
 松原さんは専門の社会経済学の視点も織り交ぜて直温の生きざまに光を当て「公に奉仕する精神を先祖から受け継ぎ、私財を投じてまで地域に尽くす姿は、身を捨て地域をまとめる人物の大切さを現代に教えている」と指摘。芳枝さんは6人きょうだいの三女だが、いずれも跡継ぎはなく、末の妹にも先立たれた。「先祖から受け継いだ多数の古文書や祖父の手紙もうずもれるところだった。個人史にとどまらない奥深い歴史本としていただき、祖父も喜んでいるだろう」と話している。A5判、387㌻。吉備人出版。3300円。

2020.6.14 山陽新聞「備中エリア」

毎日新聞 2020年6月13日 池澤 夏樹 評 (作家)『荘直温伝』(2021.03.20)

 ある学者が岡山県の小さな町に住む高齢の女性に頼まれて彼女の祖父の事績を調べ始める。
 祖父とは岡山県高梁という町で明治から大正にかけて町長を務めた荘直温。地域の振興に力を尽くし、篤実を貫いたこの人の生涯を知るうちに構想が膨らんで、この精緻な大著になった。
 家系を遡ってみると、先祖の庄四郎高家はなんと源平の戦いに参加している。それから九百年間、累代の系図が残っている。途中に矛盾や錯誤があるのを、複数の史料の突き合わせと推理によって一つ一つ解決してゆく。
 読者はとことん具体的な本書によって、平安時代から鎌倉、室町、戦国、江戸の時代相を改めて掴むことができる。西国の小さな町に日本全体の歴史が凝縮している。ぼくのような北の者は、関東以西はなんと歴史の密度が濃いことかと感心するばかり。
 これは著者の本業である社会経済学の歴史への応用である。「農業が経済の基本である時代には、開墾する動機と、耕地の保護が同時に保障されなければならない」のだが、それが難しかったから、有効な制度が整うまで混乱の時期が続いた。田畑は開かれるものであると同時に奪えるものでもある。
 武士として戦国時代を生きた庄一族は江戸期になって民間に下り、藩の末端の行政機関である庄屋職を務め、幕末を前に荘と姓を変えた。
 高梁は歴史の中で何度か危機に見舞われた。遠方の支配者の圧政にさらされ、苛烈な年貢による極端な貧困や債務に苦しんだ。
 その一方、苦境のたびに優秀な指導者が現れて改革を実行してきた。江戸末期に備中聖人と称された山田方谷がその典型だが、荘直温もこの列に連なる。
 本書執筆の依頼者である女性の手元には近代の荘一族に関わる「系図や古文書、祖父が書き残した手紙や書類」などの文書が大量にあって、それを彼女は丁寧に整理していた。これが本書執筆のために提供された。むしろ著者を誘惑し鼓舞した。
 直温の「行政官としての業績は、人々が市場経済という難物を乗りこなせるよう、社会制度や公共施設を整備、鉄道を誘致し、基礎学力から実学に至る知識を習得できるよう学校を設け、それも私心を捨てて町村の指導者たらんとしたところにあった」と著者は言う。
 この本の主題として、地方が、地域が、国に対してどうあるべきかを明らかにするということがある。例えば入会権。明治維新まで、公有地と私有地の間に「入会」という村の共有地があった。「山野の薪や秣、草は、最大限に維持されるように村によって管理されて」いた。それを明治政府は奪った。 「公」と「私」の間にあった「共」が失われた。これが今に至る地方衰退の始まり。国が強すぎるのだ。
 史料を読み解き、事実を確定し、現地を歩いて、学術書として堂々の体裁を構える一方で、著者の思いが随所に表れているのが魅力。
 高梁の正史とされる本の杜撰への義憤。日本の郷土史がみなこのレベルだとしたらという憂い。
 そして一族の文書を保管・整理しながら最後の一人となって九百年の系譜を閉じざるを得なかった荘芳枝さんへの敬愛。大きな活字で組まれ、です・ます調で書かれたのは、すべてこの老女一人を読者と想定してのことではないか。

2020.6.13 毎日新聞「今週の本棚」

(第五回)『荘直温伝』書評 大森一生氏(岡山県議会議員)(2021.04.29)

 今月は、大森一生氏の書評をお届けします。松原が調査の中で出会った高梁市在住の岡山県議会議員・大森一生氏は、当HPの為にご寄稿下さいました。

「荘直温伝」に想いを寄せる

 岡山県議会議員 大森一生

岡山県議会議長室の犬養毅像前にて。大森議員

 まず、はじめに皆さんにお伝えします。
 この物語「荘直温伝」は単なる人物伝ではありません。
「忘却の町高梁と松山庄家の900年」という少し謎めいたサブタイトルにあるように、明治維新後の大正から昭和にかけての新しい国づくり、地方自治に命をかけた「庄家28代目荘直温」という忘れ去られた男の生き様を現代に蘇らせ、藤原庄権守廣高を初代、「平家物語」に登場する家長を二代とする松山荘(庄)家900年の壮大な歴史物語であります。

 私が著者の松原隆一郎先生に初めてお目に掛かったのは、以前、自宅の一角で経営していた「café de 紅緒」へ私を尋ねてこられた時でした。「café de 紅緒」は平成30年7月の西日本豪雨災害をきっかけに閉店しましたが、築100年になる大正時代の町家で、大正時代初めに関西の旧財閥系の方が京都の職人を呼び寄せて建てられ、今となっては超高級品である銘木が随所に使われ、中庭の回縁の建具は揺らぎのある大正ガラスが当時のまま残っており、そのレトロ感が大正浪漫を一層引き立ててくれていました。
 当時高梁市議会議員だった私は、紅緒のホームページのブログ「紅緒の囁き」に地域経済の好循環、地域の持続可能な発展への願いを呟いていており、それをご覧になりカフェに訪ねて来られたのが先生との最初の出会いでした。
 それが先生の初めての高梁への来訪だったかは覚えてはいませんが、高梁市で900年続くお家で、市内下町在住の今年95歳になる庄家30代目当主の荘芳枝さんという女性がおられ、その方の祖父で元高梁町長の荘直温さんという方の人物伝を執筆するために色々と調査、資料集めに高梁へ来ていると仰っていました。荘直温さんは、高梁に今の伯備線を誘致したり、今は伐採されてなくなってしまっているが、大正末期から昭和15年頃までは関西一の桜の名所と呼ばれた桜並木をつくったりとか、他にも多くの業績を残したのです。


 荘芳枝さんというご婦人は、私がその10年前に市議会選挙に初めて出るにあたって、何度もご挨拶にいかせていただいたお家の方で、いつも表札のお名前を確認してご挨拶させていただいていたので、お名前はよく覚えていました。
 かなりご高齢の方で、独り住まいだというのは表札を見てわかっていました。その印象は、どことなく品があり、その立ち振る舞いからして、とても知性的なご婦人だというものでした。
 後で、その近所の知り合いの方に聞いたら元学校の先生で私の伯母と同じ順正女学校(編集部注:岡山県最初の女学校。現在は岡山県立高梁高等学校に統合)を出られた方だと言うのを聞いて、変に納得したのをよく覚えています。


 しかし、私をはじめ、今高梁に住んでいる多くの人にとって、明治、大正、昭和と34年の長きに渡り松山村長、高梁町長を務めたという荘直温については、あまり聞いたことがなく、これまでほとんど語られることのない名前だと思います。そして、松山荘家は30代目となる荘芳枝さんの代でその歴史が閉じられようとしています。
 芳枝さんが子どもの頃は大変貧乏だったそうで、なぜそのような境遇になったのか、祖父直温は私財を擲ってまで尽くした町になぜ忘れ去られたのか、と問いかけるその芳枝さんの真剣な眼差しが、源平合戦だの備中だの、江戸の庄屋だの、当地の歴史や地理に疎い著者の心を動かしたのでした。

 この「荘直温伝」は「忘却の町高梁と松山荘家の900年」という複雑かつ難解な謎解きの物語です。松山庄家に伝わる由緒書や系図、古いもので1700年代に書かれた誰にも読まれずに芳枝さんの手元で眠っていた、多くの古文書や親戚が残した手紙や証書類。さらに著者が自ら、国会図書館、岡山県立図書館、高梁市役所、高梁市図書館、法務局などで荘直温、庄家に関係する裏付け資料、当時の新聞記事など調査、収集した資料を基に寺院や墓所、城跡など関係する場所にも足を運んで調査し、それら資料の裏付けをとっていくことで、その確かさやこれまでにわからなかったこと、繋がらなかったことが、次々とジグソーパズルを解くように繋がってゆきます。
 著者の専門である社会経済学者としての科学的探究心と、著者の持つ正義感、責任感と熱き心が、これまで歴史の中に埋もれていた荘直温と庄家900年の物語を、今日に蘇らせたのです。


 庄家=荘家の歴史は4つの時期に分かれていて、第一期は、藤原庄権守廣高を初代、「平家物語」に登場する家長を二代とし、草壁の庄(現在の矢掛町)に定住して、ながらく猿掛城主であった武士の時代。そして、備中松山城主であった15代庄備中守為資を中継点として、江戸時代には武士から帰農し庄屋となった第二期の時代。第三期は、松山村・高梁町で明治から大正にわたって長を務めた荘直温の時代。第四期は私財を投じて高梁町の近代化につくした荘直温の死後、膨大な負債を負った息子四郎と孫である芳枝さんが生きた昭和から平成の時代になります。
 大正15年6月、直温が高梁町長の時に伯備線が開通し、備中高梁駅が開業します。彼は維新後の目まぐるしく変わる社会制度に、日清戦争、日露戦争の二度の大戦があった明治、大正時代に村長、町長となり、町の有力者とともに、伯備線誘致のため、国への要望、誘致の中心となって尽力し、郷土の安定と繁栄を願って私財を投じ借金までして町の発展に力を注ぎました。当時、鉄道誘致をめぐり、その誘致活動には筆舌に尽くしがたいほど熾烈な競争があったようです。そして、悲願であった伯備線の開通は、明治維新で思わぬ朝敵となってしまった高梁(備中松山藩)にとって、大変象徴的な出来事となりました。


 荘直温は、安政4年(1857年)に庄家28代目(松山荘家4代目=庄家)として庄屋の家に生まれ、明治9年に堺県(現・大阪府)で助教、教員を経て、明治13年に上房郡役所へ徴税掛事務、庶務掛事務として奉職、その後、高梁町の名誉助役となり、初代高梁町長の國分胤之の後、二代目高梁町長就任しました。その後、隣村の松山村長に就任。
 松山村長を20年務めた後は、上房郡会議員、高梁町有給助役になっています。この間、伯備線誘致という、直温の人生で最も重要な課題と遭遇します。山陽本線と山陰本線を繋ぐ「陰陽連結」をめぐり、津山ルート(作州線)と備中ルート(伯備線)で熾烈な誘致活動が行われています。当時の地元選出の代議士西村丹治郎や弁護士の則井萬壽雄らの熱心な活動により備中ルート(伯備線)に決定しました。
 さらに大正10年(1921年)からは、伯備線が隣町の成羽町(現高梁市成羽町)を通るか高梁町を通るかで熾烈な誘致合戦が繰り広げられました。大正12年(1923年)5月には、伯備線のルートの早期決定をお願いする請願書と成羽町と高梁町の比較表をまとめて、当時の鉄道大臣に提出しています。助役では済まなくなった直温は、大正12年7月の高梁町長選挙に町議会から推される格好で立候補し、高梁町長に当選しています。当時の町長選挙は、町の名士の集まりである町議会において、互選で行われていました。
 そしてついに大正13年(1924年)1月12日、『山陽新報』が「伯備線は高梁通過 犬養氏の肝煎で決定」と報じました。この報道は、成羽側の失望を最小限に抑えるべく、成羽―東城間にも線路を走らせる企画を抱き合わせたかのような報じ方をしています。
 その後、直温は土地の買収問題などで大いにその手腕を発揮し、地権者から感謝状を贈られています。こうして大正15年(1926年)6月20日に伯備線が開通、備中高梁駅が開業しました。当時の『山陽新報』には、「開通功労者」として西村丹治郎代議士、則井萬壽雄県議会議員、荘直温高梁町長など8人を顔写真入りで報じています。
 また、直温は高梁駅開業について『中国民報』に「俄かに好影響もあるまい 高梁町長荘直温談」を公表、ここで直温は成羽町との軋轢について「天井なしの運動」としか触れず、むしろ製造業者には将来には恩恵が確実にあり、小売人は当面は打撃を受ける見通しを立てています。
 そして伯備線が高梁を通過することが決まった半年後の大正13年(1924年)の6月に、高梁町長の直温と松山村長の中嶋直治郎らが上房郡役所に呼ばれ、岡山県からの要望で、高梁町と松山村の合併の提案がなされました。直温は合併実現に向け鋭意協議を重ねますが、体調悪化などを病気を理由に昭和3年(1928年)6月1日に町長を辞任、療養の甲斐なく9月1日に帰らぬ人となりました。
 その荘直温の人となりを表す出来事として、20年間務めた松山村村長を辞職した時の送別会で「自治の木鐸 村民の師父」といった直温の仕事ぶりを表す言葉が送られています。
 孫の芳枝さんの手元には多くの葬儀の際に読み上げられた弔辞が残っています。その中には感動的なものも多くあり、直温の業績がまとめられています。そして、その中で直温の功績は代々伝説として町内で永く語り継がれるに違いないと、皆口々に言葉を発しています。
 しかし、芳枝さんは子ども時代から、祖父の多額の負債で大変貧乏な暮らしを強いられ、ながらく逼塞していたので、家族は祖父の直温については何もいってこなかったと、筆者に語っています。明治、大正、昭和と34年の長きに渡り松山村長、高梁町長を務め、直温が私財を擲ってでも残した数々の業績があるにも関わらず、芳枝さんたちに苦難を強いた直温の仕事とはいったい何だったのでしょうか。


 筆者は最後に、町にどのような影響を及ぼしたのか、直温が晩年に情熱を燃やした鉄道誘致について考察しています。しかし、当時の直温らが鉄道誘致で描いた備中経済圏を確立し自助努力によって町を豊かにしようとする政策は、度重なる税制の変遷や大戦後の復興などを経て、ナショナル・ミニマムと呼ばれるサービスで国や県から補助金が補填される全国一律の仕組みへと変わってきました。
直温が伯備線開通時に語ったストロー現象が、100年後の今、東京一極集中という全国的に見ても東京の一人勝ちという様相になって帰ってきています。
 また、筆者は多感な時期を高梁の地で過ごし、この伯備線開通、備中高梁駅開業の町民の熱狂を目の当たりにしている芥川賞作家・石川達三の短編小説「交通機関に就いての私見」を引用し、今日の高梁市の空洞化や東京一極集中の状況を指摘しています。

 最後に。
 筆者の松原先生から、「荘直温伝」に関して寄稿文を寄せてくれないかと頼まれた時、正直どうしようかなと迷いました。最初、この本を読んだ時、高梁市の近代化のところは、知らないこともあり大変興味深く読ませていただきました。松山分家の「先祖由緒書」では、神話の話から庄氏が藤原氏の系統で庄権守藤原廣高、家長と始まり、鎌倉、南北朝、室町、戦国時代へと続き、関ヶ原の後、帰農し庄屋となり、庄家は5つの分家に分かれていきます。そしてこの物語の主人公である荘直温についてはとりわけ丁寧に調べ上げ、現在の当主である30代目の芳枝さんまで繋がっていきます。

 何とスケールの大きな物語なのでしょう。この物語を通して、この高梁の地に鎌倉時代以来、日本を代表するような興味深い史実が発見されました。
 また同時に、古文書の翻刻など専門的な作業と由緒書や古文書、多くの資料や現地調査を経て、そのひとつひとつを熟読し、丁寧に繋げて謎解きをしていくという筆者の大変細かくて根気のいる作業には、驚嘆し、圧倒されました。
 最終的に「荘直温伝」は5回熟読しました。そして注釈にある参考文献を岡山県立図書館や高梁市図書館で借りて、その都度参考文献に目を通しながら読ませていただきました。
 読めば読むほど新鮮で面白くなるという物語です。筆者の学者としての探究心、責任感をはじめ、この本に対する情熱、正義感、誠実さを感じることができ、また、多くのことを学ばさせていただいた本となりました。この本の中では、数多くの指摘がされています。さらに今後、多くの研究者が関わってこそ、真実につながっていくというものです。真摯に向き合ってこそ新たな地域の持続的発展に繋がっていきます。
 あらためて、先生に感謝申し上げます。

(第六回)『荘直温伝』書評 八木橋康広氏(高梁基督教会牧師)(2021.05.10)

 今月は、八木橋康広氏の書評をお届けします。19世紀末より始まった高梁市でのキリスト教伝道は、騒乱の時代における精神の救済、教育・社会福祉において重要な役割を担ってきました。松原が調査の中で出会った八木橋氏は、当HPの為にご寄稿下さいました。

八木橋康広氏

『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』ご刊行に寄せて

高梁基督教会(日本基督教団高梁教会)
 牧師 博士(神学)八木橋康広

はじめに

 この度は、『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』ご刊行およびオンライン「松山庄家 荘直温記念館」ご開設まことにおめでとうございました。松原隆一郎先生におかれましては、ご高著をご恵送くださりまして、「あとがき」の中で私の名前まで載せて頂いた上、本文中191頁から2頁全部を割いて弊教会堂の写真と拙著『備中高梁におけるキリスト教会の成立』について過分のご紹介を頂いておりました。そればかりかこの度は御記念館の会報への寄稿までご依頼くださり恐縮と光栄の至りであります。

 そこで、大変僭越ではありますが、松原先生の達成されたこの度のお仕事への感想とご高著について、私の気づきました点を率直に述べさせて頂きます。かなり失礼なことも申し上げますが、ご忍耐とご甘受を給われば幸甚でございます。

1.松原隆一郎先生の印象

 私が先生に初めてお目にかかったのは、先生が熱心に現地調査をされていた2018年12月でした。その過程でまず大森一生さん(現岡山県議)とお会いになり、大森さんの紹介で私を訪ねてくださりました。初めてお目にかかった時、(かなり昔の話で恐縮ですが、映画「不毛地帯」で、仲代達也演じる主人公・近畿商事の壱岐正のライバルで、田宮二郎演じる東京商事の鮫島常務のような)「一見上品だが、実は凄みがあるやり手の商社マン」というような感じがして、「東大教授」という肩書きとの落差に内心驚き「この人はタダモノではない」という強烈な第一印象がありました。その後先生が日経新聞に連載されているコラムをいくつか読ませて頂いて、先生が灘中高から東大まで体育会系の柔道部でならし、教授時代は部長まで務められて、若い学生さんと一緒にハードな稽古に汗を流しておられる文武両道の達人であることも知りました。またどの記事からも先生の全身から発する凄みと渾然一体化したユーモアの空気も感じて「東大教授というよりも、100年前の(旧制)第一高等学校のバンカラ教授が、タイムマシンに乗って密かに現代にやって来たような感じの方」だというような印象をもった次第であります。

 そのような松原先生が、人智を超えたとしか言いようのない不思議な御縁で、高梁という町の最も深層に眠っている―つまり「忘却」(ご高著の副題)の彼方に押しやられている―精神の巨大な地下鉱脈を掘り当てるお仕事へと導かれて、渾身のエネルギーを注がれて悪戦苦闘した末に、巨大な成果として結晶したのがご高著と御館であると拝察する次第であります。

2.ご高著の意義

 ご高著の意義については、著名な作家の池澤夏樹氏が、御館にもUPされている「毎日書評」でこれ以上ないと思われるほどの解説を簡潔にされていますので、以下さわりの部分を引用します。「ある学者が岡山県の小さな町に住む高齢の女性に頼まれて、彼女の祖父の事績を調べ始める。祖父とは岡山県高梁という町で明治から大正にかけて町長を務めた荘直温。地域の振興に力を尽くし、篤実を貫いたこの人の生涯を知るうちに構想が膨らんで、この精緻な大著になった。家系を遡ってみると、先祖の庄四郎高家はなんと源平の戦いに参加している。それから九百年間、累代の系図が残っている。途中に矛盾や錯誤があるのを、複数の史料の突き合わせと推理によって一つ一つ解決してゆく。読者はとことん具体的な本書によって、平安時代から鎌倉、室町、戦国、江戸の時代相を改めて掴むことができる。西国の小さな町に日本全体の歴史が凝縮している。(中略)これは著者の本業である社会経済学の歴史への応用である。(中略)史料を読み解き、事実を確定し、現地を歩いて、学術書として堂々の体裁を構える一方で、著者の思いが随所に表れているのが魅力」。

 大変不遜ではありますが、高梁の町に最初の礎が置かれたとされる鎌倉時代前期の秋庭氏による備中松山城(大松山城)の築城から近代に至るまでの間、この地の人々が繰り返して来た生と死の歩みを描き出すような作業に、自分なりのやり方で取り組んでみたいと私もかねてより密かに思っていました。しかし、具体的にどこからどう手を付けて行けばよいかという段になると、まったく雲をつかむような話で、夢想の域を超えることはありませんでした。

 高梁の歴史については、山田方谷登場後の幕末から近現代までについては、私にも多少のイメージがあります。さらに遡って水谷氏による城下町の確立、さらにはその淵源となる小堀氏による最初の定礎までなら何とか辿れるような気がします。しかしさらに遡ってそれ以前、つまりいわゆる「中世」という時代となると、伝説と歴史的記録が曖昧模糊に混在していて、そこをどういう切り口からどうやって切り込んでいくべきか、ということになると「そこから先」はあたかも濃い霧が覆っていてすべてが五里霧中、あるいは夢と現実が混じり合っているような感じで、全体像が杳としてつかめませんでした。

 池澤氏が解説しているように、先生は平安時代末から現代まで存続する「庄(荘)一門」をその「急所」として設定されて、ご専門の方法を駆使され徹底的に発掘し、分析し評価してゆくことで、一見不可能に見えるその課題を解明することに、これ以上ない成功を収めているように思います。私の言葉で説明すると、庄=荘家という「備中高梁の最初から現在まで繋がっている」一族の記録・伝承・考古的資料を「縦糸」にして、それぞれの時代状況とそこにうごめく人々を「横糸」として交差させながら、現代、つまり現在の当主であられる荘芳枝さんにまで至ることで、庄=荘家の最初から「最後(?)」までの900年間の「歴史」を編み上げることに成功されたのだと思います。

 歴史には「記録としての歴史」と「物語としての歴史」の二種類の歴史が存在すると私は思いますが、先生は徹底した関連資料の調査と分析と評価、それを基にした時代状況や人物への洞察、そこからおのずとにじみ出てくる庄=荘家とそれを取り巻くこの町の個性―先生はそれを一言で「忘却の町」と表現されているように拝察しますが―を縦横に描かれることで、この二つの歴史を総合した類い希な「高梁の通史」を完成されたように拝察します。

 まことに僭越ではありますが、これを成し遂げた松原先生の学識と洞察力、集中力と持続力、それらの土台や背景となっているご自身の人生経験、そして何より依頼主の荘芳枝さんに対する誠実さと真理への情熱に感銘を受け、心から畏敬の念を感じている次第であります。

3.ご高著と高梁基督教会との接点

高梁基督教会堂(明治22年築)現存県下最古の教会で県の史跡に指定

 これはいささか私事に渡り恐縮ですが、以下では松原先生の達成されたお仕事と、私が牧師の任にあります高梁基督教会との接点について申し上げたいと思います。

 拙著で詳しく論じましたが、高梁基督教会は明治前期の創立以来、キリスト信仰を核にしつつも、元来水と油のごとき緊張関係にある我が国土着の精神性と欧米産の精神性が自然な形で併存・融合しつつ現在まで存続している教会だと思います。その土着の精神性は山田方谷で花開き、それが明治以後新島襄を介してキリスト教に変形されているというのが拙著で展開した私の仮説です。これをさらに追究すると「では山田方谷と彼の藩政改革の根本的な土台は何なのか」ということになると思います。その思想上の表面的な姿は儒教ということになりますが、それはいわば彼らの存在を言語的に表現した「道具」であって、その根本は彼ら備中人の精神と肉体その深奥に存在する心霊、そしてそれを生み出した備中地域の自然的歴史的環境ということになると思います。

 これを淵源にまで遡って説き明かすということになると、先ほど述べたように、もう茫漠たるもので五里霧中になってしまうわけです。しかし松原先生はそこで庄=荘一門900年の歴史を解明して、これを高梁の淵源を解明するための確たる中心軸として与えてくださったように思います。しかもその根拠になる史料のすべてをウエッブ上に公開し、だれでも自由に使用できるようにしてくださっているという懇切丁寧ぶりです。

 日本の文明の歴史的段階をごく大雑把に区分すると、(1)大和朝廷(古代国家)が成立する頃、(2)平安末期から鎌倉幕府が確立する頃(中世の開幕)、(3)幕末維新と文明開化(近現代の始まり)の頃、の三つに区分できると思います。そのそれぞれの時に大津波のような社会と人々の価値観の大変動があり、その荒波に曝されながら、古い時代を包摂しつつもそれまでとはまったく違う新しい時代が創造されていったのだと思います。

 高梁地域は2度目(中世の開幕)の変革期にその礎が置かれて、その後700年近い歩みをなし、3度目(近代の成立)の変革期に山田方谷の藩政改革で前時代の成果を集約しながら新時代の種を蒔き、それが芽吹いた頃に明治維新の動乱と文明開化という名の社会革命という激震が起こって一端は跡形もなく潰え去ったかに見えましたが、そのエッセンスは人々の心の奥に保存されて新しい世代に受け継がれていきました。

 いささか我田引水となりますが、その最初の見えるモニュメントが明治22年(1889)建立の高梁基督教会堂であり、その完成体が大正15年―昭和2年(1926,1927)に創造された伯備線・備中高梁駅・栄町と言えるかもしれません。言い換えると、高梁の近代の礎を新島襄と高梁の弟子(高梁基督教会創立期メンバー)たちが置き、その事業を荘直温が完成したということになります

4.荘直温と創立期高梁基督教会の人々との絆

 この両者には、社会的環境や思想上にまで大いなる共通性と深い絆がありますが、誌面の関係で詳しく説明できないのは残念です(御誌に次の寄稿の機会が与えられますなら、また改めましてご紹介申し上げたいと存じます)。その共通するエートス(感性)を一言で説明すると、ご高著の帯にある通り「彼ら『町の名士たち』は、金や権力を自分のために使うただの『金持ち』や『権力者』ではなく、自腹を切ってでも町に繁栄をもたらそうとする人々、すなわち地方自治の担い手を自認していた」ということになると思います。

おわりに

 ここ10年来、高梁地域の衰退ぶりが、日常生活のレベルでも顕在化しているように思えます。そこに2018年の西日本豪雨災害と、昨年から新型コロナウイルスの世界的大流行が当地にまで襲いかかってきて、出口の見えない長いトンネルのような閉塞感と不安、恐怖さえ感じられます。しかしここで視点をこの地域が辿った800年以上の長い歴史の歩みに向けると、それとは違った思いに出会えるはずです。つまり長い歴史の中で何度も今以上の不安や閉塞や危機に追い込まれながらも、そこに生きていた人々(つまり当地の「祖霊」)は、その都度その状況を耐え忍びつつ、その時代の暗闇の直中から新しい希望に満ちた時代を切り開いて、次の世代に託して今日にまで至ったのは確実です。そうでなければ、この地域は「今あるようには」存在していないのは明らかだからです。

 先に示した時代区分でいうと、今世紀に入って「(3)近現代」の時代原理の行き詰まりが顕著になって、それが政治経済の閉塞から、予想もしなかった天災や疫病という形で可視化されているように思われます。このような時代には、既存の発想のみで対処しても「想定外」のことが続出して歯が立たず、そこでは無力感と絶望に陥りがちです。実は我々の直面している一番の「敵」は、次々に襲ってくる個々の試練や困難そのものではなく、その時に有効な対処方法と展望が見いだせず「何をやってもだめだ」という諦めの気持ちに囚われることではないかと思います。

 そのような時にこそ「役に立つ」のが、この地域が日本の文明史のほぼ半分の間今日まで途切れることなく存続してきて、その中で無数の人々が無数の経験をしており、何度も想像もできないほどの試練に遭遇し、時には絶望や虚無に襲われながらも、それらをすべて乗り越えて来たという厳然たる「事実」です。そして、忘却の彼方に埋もれてしまっているそういった事実を丹念に掘り起こし、その歴史=物語を地域全体と一人一人の心の糧にすることではないかと信じます。

 この度松原先生が達成されたお仕事は、その模範となり核となるようなものだと拝察します。つまり「忘却」という名の分厚い岩盤に穴を開け、その奥底に流れる先人の知恵と忍耐と勇気という精神の一大鉱脈を掘り当てて、その成果を大変に読みやすい一冊の著書にまとめて、大著としては廉価にて今を生きる高梁市、岡山県、さらには全国の人々に提供されたわけです。これは静かではありますが、大いなる壮挙だと思います。少しでも多くの方々が本書を手に取り、あるいはオンライン記念館を訪問されて、見えないけれども確実に存在する、そのような「魂の地下鉱脈」に触れて、そこから新たな活力を得ることができますように心から祈念しております。

(令和3年4月30日脱稿)

(第七回)『荘直温伝』書評 太田知宏氏(東京大学大学院博士課程)(2021.06.10)

 今月は、太田知宏氏の書評をお届けします。高梁にルーツをもつ太田氏は、学部時代の卒業論文『「教育村」と忘れられた名望家』が学会誌『日本歴史(2019年7月号)』に掲載されるなど、将来を嘱望される近代日本史研究者です。松原が調査の中で出会った太田氏は、当HPの為にご寄稿下さいました。

『荘直温伝』のご刊行と「松山庄家荘直温記念館」のご開設に寄せて

東京大学大学院人文社会系研究科
博士課程 太田知宏

はじめに

太田知宏 氏
(岡山県矢掛町洞松寺にて)

 『荘直温伝』のご刊行および「松山庄家荘直温記念館」のご開設、誠におめでとうございます。松原隆一郎先生におかれましては、遅々として進まない私の古文書翻刻や原稿の素読みに寛大なご配慮を賜りました。まずはこの場をお借りしてお詫びと心からの感謝を申し上げる次第です。そればかりか、ご高著をご恵送くださった上に、この度は会報への寄稿の依頼まで賜りましたこと、大変恐縮かつ光栄に存じます。

松原隆一郎先生との出会い

 私が松原先生に初めてお会いしたのは2019年3月、山田方谷記念館(旧高梁中央図書館)の二階においてでした。部屋の机いっぱいに並べられた古文書の奥に座っておられた精悍な顔立ちの紳士を前に、思わず襟を正したことを今でも鮮明に覚えています。

山田方谷記念館にて(撮影:松原)

 そもそも私が山田方谷記念館へ松原先生をお訪ねしたのは、高梁基督教会牧師の八木橋康広氏に松原先生をご紹介いただいたからでした。八木橋牧師との出会いは、さらに3年ほど前に遡ります。当時、学部の専攻を日本近代史に決めていた私は、母の勧めによって高梁を訪問していました。母の言葉を要約すると、私の先祖は昭和初期まで高梁という町に住んでおり、一族のなかには明治の頃にキリスト教の教会設立に関与した興味深い人物もいたそうであるから、日本史の研究をするに先立って自分の先祖のことを高梁で調べてみてはどうか。という内容でした。全くもって雲をつかむような話ではありましたが、母や祖母の断片的な記憶から、先祖が過去に「荘」を名乗っていたことまでは分かりましたので、高梁基督教会へ赴いて「荘」なる人物について何か調べることはできないか、かすかな手掛かりを探しに行くことが高梁訪問の目的でした。偶然、教会の花壇の手入れをなさっていたところへお声がけしたことがきっかけとなり、高梁地域一帯の歴史に大変造詣が深い八木橋牧師の知遇を得たことは私にとってこの上ない幸運でした。

日本歴史2019年7月号

 八木橋牧師から、教会設立に関与したとみられる「荘」姓の人物は有漢村(現在は高梁市有漢町)の出身であることをご教示いただいたことがきっかけとなり、私の学部時代の研究テーマは、大正期から昭和初期にかけて「世界一の教育村」と謳われた有漢村の歴史を研究することになりました。今から思えば、八木橋牧師との出会いと松原先生との出会いは、ともに「荘」家が私にもたらしてくれた思いがけない幸運だったと言えましょう。なお、これは蛇足になりますが、私は唐松荘家の遠縁であることがその後判明しました。
 東大の先生に、なぜか東京から離れた高梁の町で初めてお目にかかるという、松原先生との不思議な出会いと、それに続く松山庄家史料の調査というまたとない機会は、幸運な偶然が重なった結果によってもたらされたものでした。

松山庄家史料の歴史学的な可能性

 さて、私が専門としている日本近代史の観点から、松山庄家史料が有する歴史学的な議論の可能性について気付いたことを記したいと思います。もっとも、ここに記したことは私の印象論に過ぎず、事実関係を具体的に確定していくためには、今後の詳細な史料批判を要することをまずは強調しておきたいと思います。
近代日本の町村は、徴税・学事・国防・公衆衛生といった、今日的な視点からは国家が担うのが当たり前に思える様々な業務を担うことを求められた一方、国家による財源的な補助はほとんど期待できない状態にありました。また、町村長をはじめ町会議員や村会議員には基本的に無給でその職務を担うこと、すなわち、名誉職として自治の担い手たることが求められました。

 こうした時代背景のもと、明治前期から昭和初期に至るまで、その生涯の大半を地方自治の担い手として捧げた荘直温の生活は、奢侈や贅沢とは無縁だったように思われます。それどころか、『荘直温伝』からも読み取れるように、直温の生活は質実剛健そのものといえるような、極めて質素で飾らないものだったようです。直温が小作米に依拠した生活が送れるような地主ではなかったことは既に『荘直温伝』でも指摘がなされていますし、生計のために印刷所の経営や保険会社の代理店を営んでいたという記述もそのことを裏付けているように思われます。町村へ繁栄をもたらすために献身的―ほとんど自己犠牲的といってよいかもしれません―に奔走した生涯を直温は送ったように私には思えます。

 事実、直温の自己犠牲的ともいえる献身ぶりはその死によって明らかになります。詳細は『荘直温伝』に譲りますが、自身が村長を務めた松山村や、町長を務めた高梁町の発展に尽力するあまり、直温は膨大な借金を抱えていました。直温から家を継承した荘四郎は、直温が遺した膨大な借金の重圧から一家離散の危機に直面しますし、四郎の娘である荘芳枝さんも幼少の頃から青春時代に至るまで極貧の生活を余儀なくされました。

 大変失礼な物言いになってしまいますが、四郎や芳枝さんが経験された貧困という事実と、それに至る経緯を示している松山庄家史料は、近代日本の地方自治のあり方、ひいては日本近代史を再考するうえで極めて重要な意義を有しているように思われます。

 歴史学においては、その叙述の根拠となる文書=史料の存在が大前提となっています。従って、ある主体や事象について歴史学的に叙述することを試みたとしても、証拠となる史料あるいは論証を支える合理的な推測を可能とする周辺史料がなければ、それは妄想の域を出ないものとされてしまいます。さて、村長や町長の個人史料は意外と現存するものが少なく、具体像が不鮮明なまま、町村長らはともすると私利私欲を追求する「権力者」や「金持ち」として描かれがちな存在でした。こうした描写には確かに一定の合理性が認められます。なぜなら、彼らの出自が概ね旧家や名家であったことに加え、基本的には無給の名誉職に携われるだけの資産があるとみなされたうえに、経済的な利益の追求は一般的に合理的とみなされるからです。

 一方、近年の研究では村長や町長のなかには、旧家や名家の出自であることによって得られる、地域社会におけるある種の信用を担保としつつ、経済的な合理性によっては説明のつかないような行動によって(ごく大雑把に言えば自腹を切るなどして)地域社会に繁栄をもたらそうとする、名望家的な存在も相当数存在したのではないかと指摘されています。こうした見解を支えるカギとなるのは、名望家的な町村長の個人史料であることは言うまでもありません。

 しかしながら、ここに重大な問題が生じます。すなわち、名望家的な町村長であればあるほど、献身的・自己犠牲的に振る舞うことが見込まれるため、その没落も急速で、従って彼らの個別具体的な行動を示す史料が後世に残りにくいという問題です。

 四郎と芳枝さんが経験した極貧生活は、直温の名望家的な行動がもたらした結果だったとみられますが、生活の基本的なインフラにも事欠くような状況にありながらも松山庄家の歴史を守ってきた四郎と芳枝さんの類稀なる忍耐力と家を思う心なくしては、松山庄家史料はとうにこの世から消え去っていたでしょう。松山庄家史料は、それが現存しているということ自体、ほとんど奇跡的といっても過言ではありません。

 松山庄家史料は、地域社会が近代的な「発展」を遂げた背景に、献身的な町村長らの努力があったことを浮き彫りにするにとどまらず、町村長らに自己犠牲的な献身を促した近代日本の「地方自治」のあり方を再考するうえで示唆に富んだ史料群であるといえましょう。また、史料の伝来過程に思いを馳せるとき、人々の記憶から忘れ去られた多くの町村長らと、その家族がたどった、ある種の典型的な道程がそこに見いだせるようです。

 ここに記したことは、松山庄家史料が提供してくれる歴史学的な議論の可能性のほんの一部分に過ぎません。松山庄家900年の長い歴史から見れば、このほかにも膨大な論点が含まれているはずです。専門とする時代や、関心のあり方によって松山庄家史料は様々な知見をもたらし得る貴重な史料群であることは、どんなに強調してもしきれないものと思います。

おわりに

 忘れ去られていた直温の実像を追い求め、この調査のためにご購入された大型のスキャナーを自転車に載せて、3月の冷たい風が吹く高梁の町を駆けまわっていた松原先生のお姿からは、学問的な誠実さと同等かそれ以上に、人間的な誠意や真実の追求に対する闘魂の発露といった強烈な印象を受けました。

 松原先生の調査は過去の事象のみならず、現代の高梁の町に生きる人々にまで広く及んでいました。また、調査とはいっても、いわゆる「調査」という格式ばったものだけではなく、地域の山野を知り尽くした猟師が獲物を持ち寄る居酒屋や、町の由緒あるクラブなどで出会った人々とのコミュニケーションの中で醸成されたものもあったように私には思えます。温和で磊落な物腰のなかにも、現代を生きる人々の目に高梁の町の来歴は如何に映ずるのかを把握し、分析を試みる鋭い観察眼がいつも光っていたように私は記憶しています。『荘直温伝』が松山庄家の歴史のみならず、高梁の町の歴史を生き生きと描写することに成功しているのは、高梁のコミュニティーに身一つでの体当たりを敢行なさった松原先生の調査姿勢がそこに反映されているからではないかと思われます。

芳枝さんの干し柿(撮影:松原)

 人と社会のあり方を問う、人文社会系の学問分野に身を置く者として、松原先生の調査にご同行できたことは私にとってかけがえのない体験でした。なにより、如何なる困難に直面しようとも先祖伝来の史料を守り抜き、松山庄家900年の歴史を永く後世に伝えられた荘芳枝さんにお目にかかれたことは大変な光栄でした。芳枝さんにいただいた干し柿の味は、ずっと忘れることができません。

 末筆ながら、松山庄家史料が岡山県立記録資料館に寄贈され、市民の貴重な財産として保存されるに至ったこと、そして早くもその一部が「松山庄家荘直温記念館」にてデジタル上で広く一般に向けて公開されたことに心からお慶び申し上げます。

(第八回)ご寄稿 吉田吉文氏(「SOHO 吉田屋」)(2021.7.13)

  今月は、吉田吉文氏のご寄稿をお届けします。吉田氏は古文書解読サイト「SOHO 吉田屋」を経営されています。社会経済学者の松原が専門外である荘家の歴史を辿るにあたり、まず直面したのが古文書の解読でした。松原はネット検索で「SOHO 吉田屋」に出会い、吉田氏に解読を依頼して膨大な量の古文書を解釈していきました。今回は『荘直温伝』と当サイトについて、古文書解読者の視点でご寄稿頂きました。

 

吉田吉文氏について — 松原隆一郎

 古文書を現代文で解読することを「翻刻」と言います。「SOHO吉田屋」の吉田吉文さんは、私がネットを渉猟していて出会った方です。「古文書解読」をホームページで掲げておられ、「旧家等で朽ち果てようとしている古文書」が対象とのことなので、まさに松山庄家の古文書の翻刻に適役と、ご協力をお願いすることにしました。

 仕事ぶりは実に謹厳実直で、いったん粗く訳した例を短時間で返して下さり、当方の質問を踏まえて次に完成品が出来上がります。『荘直温伝』は前半が津々庄家の家系図、後半が松山庄家の古文書を中心に書きましたが、その全般についてお世話になりました。数日に一度、スマホからでも古文書のデータをメールし、翻刻していただくという作業を繰り返しました。途中からはやりとりのリズムが快適になったほどです。

 『荘直温伝』の完成後、本をお送りしましたら、「史料の残し方、伝え方ということでは、原本を物理的に安全に保管することの他に、デジタル化して公開すること、最低限の解読を施して素材として残しておくこと、が重要だと考えてきましたが、広く伝えるためには「物語り」が必要なのだと「荘直温伝」を拝見して思いました」という感想をいただきました。

 これは松山庄家の古文書を公開する本サイトを運営する趣旨と同じです。そこでご経験を掲載したいと執筆を依頼させていただきました。

 「SOHO吉田屋」さんのサイトはこちらです。翻刻をめぐる考えが様々に記されています。是非ご覧下さい。

  SOHO吉田屋 – 古文書解読

 

 

はじめに

吉田吉文氏 近影

 松原隆一郎先生から『荘直温伝』を頂戴したとき、御礼をかねて以下のような文面のメールを差し上げました。ここに再掲してみようと思います。

 

 『荘直温伝』拝読致しました。
 私は、いわば「部品」製作のお手伝いを致しましたが、このような物語りの文脈上にあったのかと気づかされ新鮮な驚きを感じました。
 

 荘芳枝さんの序文に心を打たれました。この本のサブタイトルに「忘却の町高梁」とありますが、悲しいかな必ず忘却は起こるもので、忘却させない情念のようなものが辛うじて忘却を食い止めているのだと思います。芳枝さんの情念を受けとめ、素晴らしい作品として結実させた松原先生のお仕事に敬意を表します。
 

 芳枝さんのような思いを持つ方は全国に多数存在するかもしれません。

 私は「古文書を読むだけ」を仕事としておりますが、その傍ら、八丈島の旧家(これも「忘却の旧家」です)に残された古文書を読む活動に参加させていただき、ここでも「お手伝い」をしております。この八丈島の旧家も芳枝さんの境遇に近いものがあり、古文書群の存在すら忘却、或いは見て見ぬふりをされていた状態でした。幸い、八丈島に通う研究者(会の主宰者)の目にとまり、全てを自腹(この研究者の)で画像データ化し解読したのですが、あのまま放置していたら忘却どころか消滅していたでしょう。この原本が消滅する危険は現在も存在しています。
 

 史料の残し方、伝え方ということでは、原本を物理的に安全に保管することの他に、デジタル化して公開すること、最低限の解読を施して素材として残しておくこと、が重要だと考えてきましたが、広く伝えるためには「物語り」が必要なのだと『荘直温伝』を拝見して思いました。
 この度は貴重な機会をいただき有難うございました。あらためて御礼申し上げます。

 

  

 私は「SOHO吉田屋」という屋号を掲げ、在宅ワーカーとして古文書の解読を中心に活動しております。インターネットを通じて仕事の依頼を請け、納品も成果品データをメールで送信して業務を完結させる方法で行っています。顧客の獲得もネット上で行っており、グーグルの検索連動型サービスを利用している他は何もせず、ただ連絡を待つスタイルで営業しております。古文書解読の「市場規模」は極端に小さいとは思うものの、顧客の皆さんからは「自宅の古文書を読んでみたい、後世に残しておきたい」という強い情念が感じられます。いわば点のような個人の思いを吸い上げる装置として、インターネットは有効に機能していると、やや大袈裟ですが感じつつ業務に勤しんでいます。
 

 松原先生から古文書解読の御依頼をいただけましたのは、インターネット時代ならではのことであり、嬉しい出会いでありました。

 この度、松原先生から「原本が消滅する危険」「デジタル化して公開すること」「最低限の解読を施して素材として残しておくこと」という「お題」を頂戴致しました。個人的な活動として「八丈島の古文書を読む会」という小さなグループに中途から加入していることから、その活動を通じて考えてきたことを中心に述べてみたいと思います。

 

1.「原本が消滅する危険」について

 

・個人の財産として孤立して存在している危うさ。

  私達が読んだ八丈島の古文書は、その存在自体は八丈島の教育委員会でも把握していたようですが、事実上放置されていた印象があります。原本の状態は比較的良く、先祖の財産として守り抜こうという高齢の当主(女性)の思いが窺われるものです。これらの古文書群が辛うじて残ってきたのは女性当主の「決意」のようなもののような気がします。旧家の古文書の中には公文書にあたる書類や証文類も多数残されており、漢籍や書画も相当数あります。それらが散逸せず残されていたのは奇跡とも思えます。
 

 ただ、八丈島は台風の常襲地帯でもあり、その他不測の事態を考えると、できれば行政による保護を願いたい状態といえます。
 

・公共の財産として管理できたとしても忘れ去られる不安は残る。

 古文書原本を寄託の形で行政機関等が保護する方法は広く行われているようですので、当事者の熱意があればなんとかなると思います。ただ、保護に主眼を置いた措置では忘れ去られる危険もあります。文化財として登録されることは望ましいのですが、全てが文化財と認定されるわけでもないので、価値が低いとみなされた古文書類の扱いには不安が残ることになります。また、担当する職員の感度の問題もあるし、などと余計なことまで考えてしまいます。
 

・古文書に関心を持つ私達にできること。

 ここで、八丈島の古文書にどのように関わってきたのかを簡単に紹介します。
 「八丈島の古文書を読む会」は、首都圏に在住する研究者(以下「T女史」)が、たまたま八丈島をフィールドとして活動する方であり、偶然に出会った旧家(T家)の親戚から古文書の存在を知らされ古文書を「発掘」したことから本格的に活動するようになった、というもののようです。T女史一行が八丈島に来て古文書の調査を行ったというニュースは地元の地域紙に大きく取り上げられました。実は所属する大学が関わったわけではなく個人的な研究目的による調査だったようですが、この「事件」によりこの古文書に光が当てられたことは間違いありません。一般人にとって研究者の存在は研究者当人が思う以上に大きい、という印象です。ちなみに、私が参加したのはこの直後でしたので、私にとっても労せずして八丈島の古文書を読む機会を得ましたので、幸運であったといえます。
 

 私達は古文書を読みたいという単純な動機によって関わりをもって来たのですが、その結果として八丈島の旧家(T家)の古文書群に光を当てることができたので、少しは八丈島の文化に貢献できたのではないかと思います。そして、ここまでが私達の出来ることでした。

 

2.「デジタル化して公開すること」

 

 古文書の保存や公開は大学や行政機関などで従来から行われていることであり、デジタル化された文献の閲覧も簡単にできるようになっています。国は「デジタル化」に本腰を入れようとしていますので、古文書の分野にも「DX (Digital Transformation)」がもたらされることは間違いないと思います。ですが、いつ実現できるかは未知数なので、その間に古文書が消滅しないようにしておきたい。
 埋もれがちな古文書を何とかしたいと願うとき、まず「自助」から始めることが大事だと考えています。

 
「デジタル化すること」について
 古文書の「デジタル化」は簡単なものであればスマホやデジカメで撮影して残すことでしかなく、編集もスマホ上でもパソコン上でも簡単にでき、しかも安価です。
 ここでは、経験上得た「デジタル化」のコツのようなものを述べます。
 

・「デジタル化」は「スピード優先」で構わない。

  私達が関わった八丈島T家の古文書の場合、最初は個人のデジカメで撮影しました。作業は場所の制約や相手方の負担を考え、スピード優先で行われたこともあり、おおまかな分類のみで撮影が行われたようです。今はスマホでも十分な画質が得られるので機会を逃さず「デジタル化」は可能です。
 なお、後日、T女史の自費によりプロに依頼して撮影しなおしましたが、やはり仕上がりが格段に違うので、可能であればプロによる撮影が望ましい。
 

・重要なことは、原本とデジタル画像が一致すること

 上記の方法は、一見雑な作業に思えますが、資料に貼り付けた通し番号と画像番号が一致するようにさえしておけば原本との齟齬は避けられるので、デジタル画像を使い安心して解読作業に専念できます。
 原本には必ず全ページに通し番号をつけておき、撮影した画像番号と対応させておくことは、くどいようですが強調しておきたいところです。
 

「公開すること」について

 古文書をデジタル化することにより、原本の保全と公開が両立できることにはなりますが、「公開」には現実の問題としてその対象や範囲等のルールの設定や持続可能な運用面の工夫が必要であり、結構ハードルは高い印象があります。それでも出来ることは何とかしておきたい。

 
・埋もれてしまわないための最低限の対策としては、「ここにいるよ」と発信し続けることが大事だと思います。

 個人で所有する古文書がある場合には、古文書の「物語」を語る「語り部」となって欲しい。このサイト『松山庄家荘直温記念館』のように。
 たまたま八丈島T家の古文書に関わった私達の場合には少し事情が違うのですが、少なくとも研究者には「古文書の存在」を発信する必要はあると思っています。

 

3.「最低限の解読を施して素材として残しておくこと」

 

・臆せず形にすること

  未解読の古文書に出会ったとき、多少なりとも古文書が読めるのであれば、解読が不完全であったとしても形にしておくことが重要だと考えています。とりあえずデジタル画像と解読文を編集してPDF化しておけば、いつか誰かの役に立つと思います。仮に誤読があった場合でも誰かが修正してくれるはずで、次第に完全なものになっていく。
 

・必ず検証可能な状態にしておく

 学術論文の場合は十分な査読がされると思うのですが、私が読んだもののように、ろくに検証していないものの場合、解読文だけを公開するのは避けるべきだと思います。仮に誤読・誤植が流通したとしても検証可能な状態であれば修正も可能となるので、その意味でも原文の画像と解読文をセットで公開する方がよいと考えます。それは「間違い探し」の楽しみもあり、そのことを通じて何等かの発見がもたらされ、交流も生まれるかもしれません。

 

おわりに

 

 松原先生からいただいた「お題」について、私の個人的な活動を通じて感じていることを述べてみました。ただ、古文書に関連する「世間」を知らないこともあり、「いわずもがな」の内容だったような気もしております。
 この度は『荘直温伝』という壮大な構造物の、いわば「部品作り」のお手伝いをさせていただきました。おかげさまで楽しく充実した時間を過ごすことができました。御礼申し上げます。

 

吉田吉文

(第九回) 山陽新聞 2021年09月12日 「松山庄家荘直温記念館」紹介記事 (2021.09.19)

  今月は、山陽新聞に掲載された当サイト紹介記事を公開します。

 

山陽新聞9/12付「山陽リビング」より

高梁“生みの親” 荘直温に光を

 大正末から昭和初めに高梁町(現高梁市)の町長を務めた荘直温(1857-1928年)の伝記を昨年出版した放送大学教授松原隆一郎さん(65)=東京=が同市の“生みの親”ともいえる直温の生涯や鎌倉期以前にさかのぼる一族の歴史に関心を深めてもらおうとウェブ上に「荘直温記念館」を開設した。(太田隆之、小林貴之)

 

 松原さんは社会経済学が専門だが、人づてに直温の孫の元小学校教諭荘芳枝さん(95)=同市下町=の依頼を受け、父の四郎さん(1954年没)から芳枝さんが受け継ぎ、大切に保管していた直温の手紙や家系図、古文書などを1年がかりで調査。直温の遺業とともに、芳枝さんが30代目に当たる「庄家」(明治維新後に「荘」と改名)の900年に及ぶ歴史を掘り起こし、昨年4月に「荘直温伝」(吉備人出版)にまとめた。

 芳枝さんは6人きょうだいの三女。いずれも他界して跡継ぎはなく「背bぞ代々の史料を生きた形で保存してほしい」と望み、昨年11月、21件を県立記録資料館(岡山市)に一括寄贈した。1700年代の文書もあり、ウェブ記念館は寄贈史料の写真約480点とともに、八木橋康弘・高橋基督教会牧師らの関連寄稿や新聞記事、新情報を加えて毎月、更新している。

 松原さんの調査では、埼玉県本庄市を本拠地としていた庄家の先祖は平家物語に一の谷の合戦(1184年)で戦功をあげた源氏武士として登場。恩賞で赴任した備中で勢力を広げ、1533年に15代庄為資が備中松山城(高梁市)の城主となった。従った毛利家が関ヶ原の戦いで敗れたことで武士を廃業。江戸時代は同城下で代々、庄屋を務め、直温は11歳で明治維新を迎えている。

松原さんは「直温の生涯を追ううちに、この地に鎌倉期以来、日本を代表するような史実が眠っていることが確認できた。ウェブ記念館を新たな研究や情報交換の場としていきたい」と話している。

 

 新しい試み

 定兼学・県立記録資料館特別館長の話 ウェブ上の「荘直温記念館」は誰もが容易に貴重な史料にアクセスでき、進化・深化する歴史学につながる新しい試み。高梁にゆかりがなく、歴史が専門ではない松原さんによる快挙だ。

 

(第十回) 毎日新聞 「今週の本棚」 松原隆一郎・評『新九郎、奔る! 既刊1~7集』=ゆうきまさみ・著 (2021.10.02)

 今月は、毎日新聞にて連載中の「今週の本棚」より松原による『新九郎、奔る!』評をご紹介します。硬軟様々なジャンルの作品の書評をお届けしている松原ですが、漫画作品の書評は大変珍しいことです。

 『新九郎、奔る!』で描かれるのは、室町時代から戦国時代にかけて波乱の人生を生きた戦国武将、伊勢新九郎盛時。後の北条早雲。この人物は、庄家庶氏のスターと大きな関わりがありました。

 

毎日新聞「今週の本棚」

「老齢の素浪人」の概念消し飛ぶ

 私のような歴史学の門外漢は、歴史フィクションで歴史を知ったつもりになる。坂本龍馬は言うまでもないが、隠れた好例が北条早雲だ。

 従来は海音寺潮五郎の『武将列伝』(1959~63年)に代表される北条早雲像が定番だった。「一介の旅浪人から身をおこし」「五八から六〇までの間にやっと一城の主になれた」とされ、老齢の素浪人が地盤のない関東で下剋上に挑み戦国大名の魁となったというイメージが魅力的だった。

 ところが近年の歴史研究が、そうした早雲像をひっくり返している。最新の研究を踏まえ現在のところ決定版伝記とされるのは黒田基樹著『戦国大名・伊勢宗瑞』(2019年、角川選書)。出家前は伊勢新九郎盛時で、浪人どころか室町幕府の有力官僚。備中伊勢氏の庶流、荏原(現在の岡山県井原市)に領国と高越城を持ち、年齢は24歳は若いというのが黒田説だ。10代から幕府と領国で揉まれ、37歳で伊豆侵攻を決行したというのだから、それまで支持されてきた理由の大半が消し飛んでしまう。

 本書はフィクションだがストーリーの骨子はほぼ黒田らの新説に沿っており、その上で漫画の技法を活かしている。ラブコメ風の絵柄やギャグ歴史物語にも有効で、驚かされる。

 私は『荘直温伝 忘却の町高梁と松山庄家の九百年』(吉備人出版)で、荏原の伊勢家領国の東隣(現在の井原線で隣駅)にある草壁の庄と猿掛城を本拠地とした「庄氏」について、江戸時代に書かれたと目される庄家津々本家の系図をもとに紹介した。その際にもっとも想像しづらかったのは、いまは竹林である庄氏館のかつての姿や狭い山陽道を軍兵が行き交う様子、さらに京都の本家と備中の在郷庶子の対立だった。京都の細川京兆家に仕える内衆と守護代の立場の違いが、とてもイメージできなかったのだ。

 本書はそのイメージを想像で膨らませ、圧倒的な画力で描き出している。歳をとったり弱ったりも含めて100人を超える人物を描き分け、伊豆侵攻の引き金となる姉の「北川殿」もキャラクター設定で布石がある。とくに第4集以降の「領地経営」編では、西荏原と東荏原の伊勢氏内で領地争いが繰り広げられ、膝を打った。なかでも新九郎が城主館で東西伊勢氏および那須家を和解させる仲介役に「庄伊豆守元資」を引っ張り出す場面は見どころだ。

 ちなみに守護代であった伊豆守元資は1491年、吉備津神社や周辺の倉を襲撃し500人が死亡するという「備中大合戦」を起こし、守護である細川勝久に包囲され、遁走している。新九郎が伊豆を侵攻する直前の出来事である。細川京兆家の内衆である庄本家には系図上、おそらく別人でより若い駿河守元資がおり、庄氏内でも確執が存在したに違いない。細川や本家の権威でも黙らない地方勢力が胎動しつつあった。

 新九郎は生真面目かつ思慮深く設定され、京都では応仁の乱で将軍周辺の権謀術数を体感し、荏原でも領主としての悪戦苦闘を経て成長していく様が描かれる。20年後に伊勢宗瑞となって以降の関東制圧は「堅実にして老練」と称えられるが、その説明とすれば大いに説得的。ここから姉の嫁ぎ先・今川氏(義忠)に話が移る。楽しみな大河コミックだ。

2021年09月04日 掲載

 

この作品を知った時、快哉を叫びました ―― 松原

©ゆうきまさみ 小学館 週刊ビッグコミックスピリッツ「新九郎、奔る!」より
©ゆうきまさみ 小学館週刊ビッグコミックスピリッツ
 「新九郎、奔る!」より

 中世の備中には現在、全国的な関心が向かう気配もなく、『荘直温伝』の執筆は孤独だったなぁ、と思っていたら、信じがたいことに「草壁の庄」の隣を舞台とした歴史漫画が出現。なんと北条早雲の伝記です。
 7集まで既刊というタイミングで毎日新聞に書評を書かせていただきました。
ゆうきまさみさんは、『少年サンデー』でデビューした少年漫画家。SFを得意とされます。その方が青年誌に登場、歴史物を北条早雲というシブい主人公で書き始めたのですからびっくりです。
 その上、なんとなんと「庄伊豆守元資」までが登場。これには興奮しました。
 そこで毎日の書評を転載いたします。
 さらに、寺田克也さんから私信でコメントをいただきました。

 「ラブコメ風の絵柄、という表現が若干、今だと通じないかもですね!」

 ありゃそうですか。まあ私の頭の少年コミック誌は中は1990年頃で止まっています。どれほど多様化したのかも知らないですが、毎日の読者は私と同年配かと臆断しました。
 嬉しいのはこのコメントです。

  「しかし圧倒的画力というのは言い得てです!ゆうきさんはシンプルな描線なので、うまさが意外と伝わってない人なんですが、いつも舌を巻く表現力なんですよね、、、、、」

 こう仰るのは世界が注目するイラストの巨匠です。寺田さんの画は誰もが「圧倒的画力」と言いやすいのですが、少年誌のあだち充や高橋留美子はそう言いづらい。同類の描線で百人以上の成長までかき分けるのですから、ゆうきまさみさんの画力はハンパないです。
 とくに、15度とか横を向いた顔。本当に15度、と伝わるんです。圧倒的な描写力としか言いようがない。その画で陰謀の悪魔・貞親が剃髪したり病気になったり死にかけたりまで描き分けて、「貞親」と分からせるのです。

 9月10日には最新刊第8集が発売され、週刊ビッグコミックスピリッツで大好評連載中です。

 引き続き、目が離せません。

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