松山庄家系図

松山庄家系図 (松原仮説)

 系図は現在でいえば戸籍にもとづき姻戚関係を図表化したものですが、国が戸籍を管理していなかった江戸時代以前、それぞれのイエにおいて誰が家督を継いできたのかを説明するものとして「先祖由緒書」が記され、管理されていました。

 いわば私文書ですし、偽書も少なくないと言われます。けれども「いずれが本家か」といった論争があるような場合でなければ、由緒書は特定の「イエ」の中で一定数のメンバーが、誰が家督を継いだのかを認定する文書ですから、無視することもできません。偽書を排除するためには、由緒書を無視するのではなく、相互に比較し、史料とつきあわせる必要があると思われます。

 備中松山城主であった庄為資を中継点として、庄家は江戸時代以降、津々庄家(本家)、呰部庄家、有漢庄家、松山庄家へと、家督の一部を分割しつつ分家を重ねました。唐松庄家は、津々庄家から直接に分家したとされます。

 松山庄家の系図が起点とするのは為資ですが、私が松山庄家の系図として津々庄家が書き始める鎌倉時代にまで遡ろうとしたのは、史実を究明するためというよりも、「荘直温はなぜあれだけ故郷に尽くそうとしたのか」を理解するためでした。仮に架空の物語であったにせよ、家系に対する強烈な自負と地域に対する責任感が感じられたからです。

 為資の家督を継ぐ庄家では、重大事は五分家間の会合で決められ、大正時代頃までは年に何度か会合があったとされます(荘芳枝氏談)。

 誰かが「分家」したり「独立」すると、新たな家系の創始者は由緒書を書き起こす必要があります。「独立」は「元祖」と但し書きして初代がイエを興します。分家の場合は本家から分かれるので、書き起こした由緒書は、分家初代以前の系図は本家と共有しています。庄家では会合で分家を承認していたようなので、互いに内容が矛盾しないであろう正統な由緒書が、津々・呰部・有漢・松山・唐松という五つの庄家にそれぞれ伝わっているはずです(それでも起きている混乱、とくに「庄時直」については、『荘直温伝』を参照のこと)。

写真 「下がり藤」の家紋があしらわれた幕があることから、五分家の会合か)

 津々庄家の由緒書は所在が不明ですが、その内容は藤井駿・水野恭一郎編『岡山県古文書集』全3輯、山陽図書出版、1953-56(掲載時点では庄智心所蔵)に記載されています。墓も裏山にあり、保存されています。呰部庄家は墓が放置されており、由緒書は所在が不明ですが、内容の一部が『吉備郡史』の「直頼系図」(「庄氏系圖」、「呰部庄氏」)に記されています。有漢庄家は大正時代に破産した際、家屋と墓が売却されており、由緒書は所在不明、内容も不明ですが、『由緒書 庄秀太郎』に四代目までの功績が記されています。唐松庄家については由緒書が火事で焼失したとされます。確認しうるのはそこまでで、その他については今後の庄家研究に期待します。

 松山庄家の「先祖由来書」は松山城主となる為資から系図を始めており、それ以前については前書きで「小田郡旅掛(注;猿掛)を城地とす。広家より庄為資迄同城住す」と記しています。

 本来、松山庄家の系図を本家の元祖までたどるには、津々庄家由緒書、呰部庄家由緒書、有漢庄家由緒書と松山庄家由来書を照らし合わせる必要がありますが、『荘直温伝』で示した「松原仮説」は、『岡山県古文書集』に収録された津々庄家由緒書、『吉備郡史』の「直頼系図」、『由緒書 庄秀太郎』と松山庄家由来書をもとに検討しています。

 家制度の柱となる家督相続は、昭和22年の民法改正でその本質が終了しましたが、それ以後も四郎・芳枝の父娘が古文書、墓、仏壇を保管していました。本系図が示すのは、芳枝さんに至る松山庄家の家督相続の流れです(本項について、詳しくは『荘直温伝』第Ⅰ部第3章参照のこと)。