松山庄家で荘芳枝さんが引き継いできた史料は2020年11月12日、岡山県立記録資料館に寄贈されました。本ページではその内容を写真で公開します。(1)~(34)という分類についてのみ説明を付し、松原隆一郎による個々の史料についての解釈は『荘直温伝』に譲ります。
『荘直温伝』に描いたのは解釈のひとつであり、別様の解釈もありえます。岡山県立記録資料館に是非足をお運び下さい。松山庄家史料から、先入観なく新たな研究が始まることに期待します。
岡山県立記録資料館
〒700-0807 岡山市北区南方2-13-1
電話 086-222-7838
(1)庄松山分家由緒書
※庄家は平安時代末、現埼玉県本庄市から本家が岡山県の小田川沿いに土地を得て移動。「草壁の庄」に館を構え(現「庄氏館」)、猿掛山を代々の城とした。
江戸時代に本家が津々にて帰農し、以来、呰部、有漢、松山と分家し、唐松分家と合わせて五家となる。各家で由緒書が書き継がれたようであるが、そのうち庄松山分家由緒書は前書きで「小田郡旅掛(注;猿掛)を城地とす。広家より庄為資迄同城住す」と要約のみを述べ、松山城主となった為資を起点として系図を書き継いでいる。家督相続は昭和二二年の民法改正まで続くが、末尾には荘芳枝の名がある。
(2)先祖由緒過去帳
※表書きは「弘化三丙午稔夏六月上旬改 先祖由緒 過去帳 荘氏」。筆者は松山分家二代目の庄虎蔵直亭で、弘化三年は一八四六年。藤原家長に始まる前史と、江戸時代に津々から呰部、呰部から有漢上村へ分家し、そちらは楠治郎が継ぎ、次男の菅助直英が松山藩に分家し西村の庄屋役を務めたという松山分家誕生までの事情を詳述している。
(3)萬日記直頼改之
※表書きは「安永三甲午天六月吉日 庄氏 萬日記 直頼改之 文化八辛未九月吉日 写之』。時々の検地に際して津々本家が受けた調査依頼にどう返答したのか、農戸三代目・治右衛門直勝や六代目・彦左衛門直頼ら当主が書いた文章をまとめたもの。直頼が安永三年(一七七四年)にまとめ、文化八(一八二五)年に誰かが書き写したようである。
(4)御巡見付心得方記録 虎蔵
非公開
※庄虎蔵は松山分家二代目。天保九(一八三八)年の検地に際し、事前に村を巡回する藩役人を案内しており、原西村から村境を接して北側にある「今津村」の町反や石高、住民数など検地に必要なデータと、周辺の谷や川、岩などにつき記述がある。
(5)由緒書 庄秀太郎
※庄秀太郎は庄有漢分家初代・庄三郎吉直亮のひ孫で四代目。曾祖父の直亮、祖父の庄猪太郎、父の庄半および自分という庄有漢分家の四代につき生々しく記録している。庄松山分家で何故継承されてきたかは不明。
(6)荘芳枝編「古文書集」
※庄松山分家で継承されてきた天保~明治期の文書。明治十一年の「家政改革規定書」を含む。
(7) 荘芳枝編「松山村長送辞」
※荘直温は大正三年三月、明治二十七年以来務めた松山村長を辞職。 四月二三日に松山小学校で送別会・頌徳式が開催され、松山役場、松山尋常小学校職員、在郷軍人会松山村分会、高梁南部青年団、高梁家畜市場などから送辞が贈られた。
(8) 荘芳枝編「荘直温 七十二年の足蹟」(一)
※荘直温の職務にかかわる文書のうち、履歴書や授かった表彰状まで百二十九点。
(9) 荘芳枝編「荘直温 七十二年の足蹟」(二)
※荘直温の職務にかかわる文書のうち、祝辞・送辞など直温が書き贈ったもの。
(10) 荘芳枝編「昭和三年九月二日没 弔辞」
※荘直温の葬儀において贈られた弔辞。高梁警察署長・国府富治、高梁郵便局長・岡村秀治郎、高梁町長・池上仙二郎、友人総代・西村丹治郎、弁護士・則井萬寿雄他、高梁町の名士によるもの。
(11) 荘四郎釣書
※荘直温が三男・四郎のために作成したと思われる釣書。
(12) 荘泰代釣書
※荘四郎が四女・泰代のために作成したと思われる釣書。
(13)下町23荘活版印刷所写真3枚
※ 下町23に荘直温が創設した活版印刷所。同所は高梁川の氾濫で浸水した後、昭和九年に競売で落札されている。
(14) 荘直温四郎内約書
※大正三年七月十三日付け。当面荘活版印刷所の経営は直温と四郎の両名で行い、直温が六十一歳になる大正七年をもって権利義務はすべて四郎が継承するということを、親族立ち会いのもとで契約したもの。
(15)日本生命会計課への書簡集
※日本生命高梁代理店を経営した荘直温が同社会計課と交わした書簡集。
(16) 荘四郎日記 昭和三年 記録資料館にて公開・画像なし
※荘直温の死亡前後、看護や葬儀、財産の継承につき三男で家督相続者である四郎が綴った日記。
(17) 荘直温借用金延期証書
(18)日本生命代理店契約 記録資料館にて公開・画像なし
※高梁代理店にかんし日本生命と荘直温が結んだ契約書。
(19)宇治村治績書類
※明治四十三年に荘直温が出版した『模範選奨 岡山県川上郡宇治村治績』にかんする書類。
(20) 荘直一直温書簡 公開なし
※直一が妻である隆代につき父・直温に訴えた書簡
(21) 荘直一三宅茂介書簡
※三宅家は直温の次男・愛二が養子に行った先。
(22) 荘直一四郎書簡
※昭和参年十月四日付け。故荘直温の家督相続につき、荘直一と荘四郎が取り交わした契約。直一は法定の家督相続人ではあるが、不動産と動産物件はすべて四郎に無償で移譲し、負債は四郎がすべて負うことを約束している。四郎は形式的には分家となるが、家屋を相続し祖先の霊祭も行うなど、実質的な家督相続者であることが謳われている。
(23)直温の会社についての感想書簡 記録資料館にて公開・画像なし
(24)直一、蚕写真
(25) 荘温集合写真3枚
(26)荘活版印刷「山蚕田飼法摘要」 記録資料館にて公開・画像なし
(27)荘芳枝編「荘家歴史館」アルバム 記録資料館にて公開・画像なし
(28)『備作名門八十家』 記録資料館にて公開・画像なし
※新田文雄著、「郷土史研究会」発行、限定100部。荘家の系譜として庄家長から荘芳枝に至る松山分家の系図を掲載。誤記が多く史料的価値はない。
(29)備中村鑑 記録資料館にて公開・画像なし
(30)上房郡誌より抜粋 記録資料館にて公開・画像なし
※荘芳枝の研究ノート。
(31)津々本家、洞松寺写真 記録資料館にて公開・画像なし
(32)荘芳枝勉強メモ 記録資料館にて公開・画像なし
(33)写真集4冊 記録資料館にて公開・画像なし
(34)倉敷歴史研究会庄氏研究講演テープ 記録資料館にて公開・画像なし
(35)町長選挙ほか
大正12年8月、荘直温が助役から高梁町長に立候補した際の申請書、履歴書、選挙時の町会議事録等。
【巻物】
(1#)書、国分三亥「楼雲漠漠与天」 高梁市歴史美術館蔵予定
(2#)書、国分三亥「離郷」 高梁市歴史美術館蔵予定
※国分太郎は検事・朝鮮総督府法務局長・宮中顧問官を歴任した司法官僚で、文久三(一八六三)年生まれ。高梁北小学校に校舎一棟を寄付、昭和36年には高梁市初の名誉市民となる。著書に『漸庵詩集』(万葉書房、1975)あり。荘直温が明治22年に高梁町の名誉助役となった際に補佐した初代町長が『昔夢一班』の著者でもある国分胤之で、国分三亥はその長男。直温は明治25年に二代目高梁町長となった。
(3#)書、山田準「恪勤」→高梁市歴史美術館予定
※山田は山田方谷の次男の養子、『山田方谷全集』全三巻の編集者。高梁小から備中松山藩藩校である有終館、東京帝大古典講習科に進み、二松学舎の校長をながらく務めた。「高梁近郊三十六詠」がある。
(4#)書、藤江漁翁
(5#)日露戦争天皇詔勅
(6#)荘直温勲七等賞状
※荘直温は明治三九年、明治三七八年事件(日露戦争)の功によって勲七等青色桐葉章及び金五十円を賞勲局より授与された。