Ⅰ.原史料
1.松山分家に伝わる『先祖由来書』 岡山県立記録資料館蔵
2.津々本家に伝わる『庄氏系譜』 藤井駿・水野恭一郎編『岡山県古文書集』全3輯、山陽図書出版、1953-56。掲載時点では庄智心蔵
- 『由緒書 庄秀太郎』岡山県立記録資料館蔵
有漢の初代直亮から四代目秀太郎までを詳述しています。
4. 『弘化三丙午稔夏六月上旬改 先祖由緒 過去帳 荘氏』 弘化三(1846)年改稿、岡山県立記録資料館蔵
筆者は松山庄家二代目、直温の祖父である虎蔵直亭。松山分家までの分家の事情について詳述したものです。
5.『吉備郡史』高梁市図書館、国立国会図書館他蔵
「安永八(1779)年亥八月吉日庄氏直頼」による。中巻に二種の「庄氏系圖」所収。一つが「呰部庄氏」で、直法―茂兵衛直重(呰部分家初代)―茂兵衛直寛(三上勘九郎男)―富治郎直政-武兵衛直興と記しています。呰部分家の由緒書が所在不明なだけに、有力な情報です。
ただし呰部三代目直政の弟を三郎吉直亮とし、「松山原上村に分家」と注記しています。巷間に出回る直亮=松山初代という謬説はこの注を引用したものです(詳細は『荘直温伝』第Ⅰ部第2章参照)。この「松山原上村」は「有漢上村」と書くべきところで、直頼は「松山原西村」と混同したものと思われます。
『荘直温伝』の第Ⅱ部第1章(戦国時代)、第2章(江戸時代)は、以上5つの原史料を比較考量の上、修正を加えつつ書きました。それ以外に引用したのは次の6です。
Ⅱ.参考資料
- 植木成行『中世備中の歴史―庄氏と植木氏と三村氏―』新人物往来社、2008
まえがきに「本稿は備中庄氏の全歴史の究明を試みたものである」とあります。膨大な原史料にたんねんに当たり、考察した労作。惣領家と庶子を区別しており、庄家研究では今のところ最高水準にあるようです。
そして「備中庄家系図」(p.82)は、wikipediaを含む備中庄家について触れる文章ではほとんどが引用されています。いわば研究の礎石です。ところが私には、この系図がいかにして作成されたのか、その出所は何なのかがさっぱり理解できません。
たとえばこの図には「西家」「北家」「武宮家」「植木家」と記載されています。この呼び方は著者である植木氏のオリジナルなのか、どこかの学会で公認されたものなのか、記載がありません。「惣領家」とあるのは松山庄家につながる津々本家のことらしいのですが、その庄津々本家の由緒書(藤井駿・水野恭一郎編『岡山県古文書集』全3輯、山陽図書出版が内容を収める)は、為資の父は元資、その父は氏敬と記しています。ところが著者の植木氏は元資の父を「兵庫助」とし、さらにその父を元資としています。興味深い指摘ではありますが、それがどんな推論によるものなのか記載がありません。
「元資は二人存在する」というのは私も主張する説なので共鳴しますが、どの系図を引用ないし参照しての説なのか、記載がありません。これでは仮説を原史料まで遡りようがありません。引用する人たちは、出所も分からない「系図」につき何をお喋りしているのでしょうか。私にはチンプンカンプンです。
説明がまったくないので推測するしかありませんが、これは実在する由緒書や史料に記された「人物名の間の『線』」を元に再構成した系図ではなく、植木成行氏が確認した各種原史料に登場する人物名を模造紙の上に置き、当て推量で線を引いてみたものではないでしょうか。つまり「植木仮説」です。小田川沿いに実在する備中庄家の本拠地「草壁の庄」には、鎌倉から室町時代に分家した庄一族が屋敷を集めていたようなので、そこに著者が割り振った家名が「西家」や「北家」なのでしょう。そう考えざるをえないほど、探しても植木系図の元になる史料や論文が見つからないのです。
気になるのは、「北家」系図の末尾にはひっそりと「(以下略)我家」とあることです。著者は『荘直温伝』にも登場する植木秀長の末裔なのでしょう。とすれば植木家の由緒書はみずから保管していると思われます(記載はありません)。けれどもその由緒書だけから、庄本家の系図までは描くことができません。他の史料が存在することは明白です。作成過程を明記しないのでは、自然科学ならば学術文献として扱われません。一研究者の備忘録ないしメモの域を出ないことになります。
『中世備中の歴史』には寺への寄進の際に寄せられた原史料のようなもの以外の引用元や参考文献が、ほとんど挙げられていません。『荘直温伝』では、引用元を明記した箇所のみ引用しました。ただしそうした個別の「事実」についての考察は、原史料の探索が入念で、既存文献として参照する価値が大いにあります。
7.『高梁市歴史人物事典』 http://takahashi.jyoukamachi.com/
「野山屋主人」(松原の調査によればS氏)が「平成18年6月に作った本『高梁歴史人物辞典』(非売品)をインターネット上で閲覧できるようにしたもの」。2020.11.31時点で閲覧可能。民間の私人が趣味で調べた成果ですが、内容は間違いだらけです。
8.『高梁市の歴史人物誌』(平成25年)高梁市教育委員会、郷土資料館他にて販売。 https://www.city.takahashi.lg.jp/site/kyouikuiinkai/kankoubutsu-hanpu.html
荘直温の項に「しょうなおあつ 生年不詳~昭和3年6月1日」「・・6月1日、直温が急逝するまで2期高梁町長を務めた」とあります。正しくは「しょうなおはる 安政4年~昭和3年9月3日没。6月1日、直温が辞任するまでに、明治時代に1期、大正から昭和にかけ2期、高梁町長を務めた。また大正3年まで20年間松山村長を務めた」です。
市役所が市民の税金を使って出版する本で、高梁市の前身である高梁町の町長名の読み方を間違い、在職中に逝去したという(市役所としては間違うはずのない)誤りをわざわざ書き記し、印刷して有料で配布しているという事実に私は衝撃を受け、「正しい荘直温像を本にして欲しい」という荘芳枝さんの真摯な依頼を受けることにしました。
調べる気がない、もしくは正確に書こうという使命感に欠けている地方文化の実例として、私は『日本経済新聞』「あすへの話題」(2020.8.25夕刊)で「根腐れしつつある」と評しました。
本書は、非売品の『高梁歴史人物辞典』もしくはネットで公開されている『高梁市歴史人物事典』を、高梁市教育委員会(「平田守」教育長)が「コピペ」して出版、販売しているものです。平田氏の言葉に「編集に当たっては貴重な資料をご提供いただいた佐藤亨氏」とありますが、出版に際しては「高梁市歴史人物事典編さん委員会」(松前俊洋委員長)が構成されているので、文責は委員会にあります。
しかも平田委員長が「出展(原文ママ)資料もそれぞれ明記しています」と述べているのに、また組織した「高梁市歴史人物事典さん委員会」という専門家たちがついていながら、出典とされる「高梁人物誌」は実在しません。原稿は存在したそうですがそれも所在不明(高梁市教育委員会への電話による問い合わせで判明)だそうです。
世間ではこうした行為は「デッチアゲ」ないし「改竄」と呼びます。教育委員会や専門家が明確な意思のもとにこうした出版を行ったというのには、教育や学術に対する根深い悪意ないし冒涜を感じます。
9.旧版『高梁市史』高梁市、昭和54年
「庄氏」の項はP.132~140。『備前軍記』『陰徳太平記』『中国太平記』『西国太平記』などの軍記物が多く論拠として挙げられ、それらは郷土史ではしばしば引用されるものではありますが、虚実入り交じり資料的価値が疑われています。引用するにせよ、他の史料との比較考証が必要でしょう。
文中、庄家の家紋を、根拠を示さず「立ち」「唐団扇」「三に上り藤」としています。それを根拠として、高梁市は確認することなく庄氏の家紋としてそのいずれかを使っています。けれども庄氏は為資以降に北上、松山城に進出していますから、高梁市史に記載する庄家家紋としては為資や本家・分家の位牌にある「下がり藤」を一番に挙げるべきでしょう。つまりすべて間違いです。この項は、調査をほとんどしていない人物が執筆したのでしょう。
松山庄家の墓石にある家紋デザイン(前保石材工務店作)は、この「下がり藤」です。
旧版『高梁市史』では、庄智心氏が市史編纂委員・文化財専門委員を務めたと記されています。一方、藤井駿・水野恭一郎編『岡山県古文書集』全3輯、山陽図書出版、1953-56、によれば、津々本家の文書は掲載時点では庄智心氏所蔵とされています。つまり同氏は津々本家の文書を所有していたのですが、なぜか家紋の間違いを見逃しています。庄為資以降、津々本家を含む庄家の墓石や位牌に「下がり藤」があることに気づいていないのです。庄智心氏は庄家の内情には通じておらず、津々本家の文書のみ所蔵する人物なのでしょう。
「庄氏」の項が「庄家の子孫は津々村に棲みついた」と正確に記しているのは、津々在住で市中学校長会長の田井章夫氏が学識経験者として編纂に加わっているからかもしれません。ただし「荘直温」の項(P.840)では、荘直温が為資の末裔であることは記されていません。
10.新版『高梁市史』上下巻、平成16年
第四章p.201に「庄氏」の項があります。こちらは軍記物は利用せずほぼ定評ある史料による文章で、その点は好感が持てますが、何故か「元亀二年(1571)三村元親と毛利元清の連合軍に敗れ戦死、庄氏は滅亡した」と述べています。この文章は現在も観光協会のチラシなどで流用され、致命的な影響を及ぼしています。何故旧版『高梁市史』を読まずに新版の原稿を書いたのでしょうか。見識が問われる執筆者名には「朝森要」とあります。
11.田井章夫『備中松山城主庄氏の歴史』(昭和63年、「中井の歴史叢書」第三冊改訂版限定20部、非売品、ガリ版刷り冊子)。
津々にほど近い中井在住の郷土史家が戦国時代の合戦につき詳細に調べており参考にはなりますが、系図にしても出典を示さずずらずらと並べています。
末尾は「徳川期最後の庄屋は庄又玄をもって終わり、又玄は明治一六年戸長、又一七年にとなり、栄光の庄氏は終わりを告げた」と終わっています。これは興味深い記述で、掲載している系図には「又玄」なる人物は出てきませんから、津々村の知り合いなのでしょうか。
「庄氏は終わりを告げた」として津々本家の家督は断絶したかのように述べています。それが本当ならば、信長の書状も含め他家に流出した可能性があります。昭和26年に藤井駿・水野恭一郎編『岡山県古文書集』全3輯の編者たちは津々本家の系図を調査したとあり、その時点で荘智心氏所蔵とされています。
12.『備作名門八十家』新田文雄著、発行は「郷土史研究会」、限定100部。
各家の系図を掲載した美装本ですが、データの出所記載なし。当事者にインタビューしその内容を掲載して、インタビューされた当人に販売することを目的とする類いの商業書籍なのでしょう。系図の誤り以外にも、荘直温の孫で直一の息子の名前「健次」を「健二」と誤記しています。史料的価値はありません。